|
前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。 == 生涯 == === 幼少期から家督相続まで === 文禄2年(1594年)、加賀藩祖・前田利家の四男〔歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P349〕として誕生。母は側室の千代保(寿福院)〔。利家の56歳の時の子である。利家が豊臣秀吉の文禄の役で肥前名護屋城に在陣していた時、生母の寿福院は下級武士の娘で侍女として特派されたが、その際に利家の手がついて生まれたのが利常である〔『前田綱紀』(人物叢書)6頁。〕。幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられる(長種の妻は長姉・幸姫)。父・利家に初めて会ったのは、父の死の前年の慶長3年(1598年)に守山城を訪ねた折りのことで、利家は幼少の利常を気に入り、大小2刀を授けた。 慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となった〔『前田綱紀』(人物叢書)7頁。〕〔。この人質として小松城内に抑留されていた際、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。同年、跡継ぎのいなかった兄・利長の養子となり、名を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか3歳だった)。徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになる。 慶長10年(1605年)6月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となる〔。4月8日、松平の名字と源の本姓を与えられる〔村川浩平『日本近世武家政権論』166頁。〕。しかし利常は父以来の菅原姓にこだわり固守したと伝えられている〔歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P350〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前田利常」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Maeda Toshitsune 」があります。 スポンサード リンク
|