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前田錦楓 : ウィキペディア日本語版
前田錦楓[まえだ きんぷう]
前田 錦楓(まえだ きんぷう、1863年(文久3年)10月12日 - 1945年(昭和20年)10月15日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。 花鳥画を得意とし、近代日本画初期に出た閨秀画家。
== 略伝 ==
江戸浅草で薬種商を営む浅間栄の次女として生まれる。本名は浅間理恵。1876年(明治6年)11歳で、洋画亀井至一に入門し洋画を学ぶ。10代で石版画の画工として作品を遺し、1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会では浅間里ゑの名で油絵「婦人半身の図」を出品している。21歳より日本画に転じ、容斎派の歴史画家松本楓湖に入門し日本画の基礎を学び、この楓湖より雅号「錦楓」を授与された。今村紫紅速水御舟らを育てた優れた教育者でもある楓湖は錦楓の資質を見抜き、「もうこれ以上教えることはなにもない」と、錦楓が23歳のころ、狩野派の巨匠・狩野芳崖への入門を勧めた。それを契機に、芳崖、岡倉覚三(天心)、フェノロサ橋本雅邦らに巡り会い、日本画壇「鑑画会」で頭角を顕し、近代日本画の女流の魁としての道を切り開いた。
1887年(明治20年)速念寺名古屋市中川区)の住職前田學に嫁し、名古屋に移住。狩野芳崖の没後は橋本雅邦に就き研鑽を重ね、洋画日本画との調和に努め、至心に自然の美を表現して女性らしい絵画の世界を展開した。また錦楓は師友にも恵まれ、維新の三舟といわれる高橋泥舟山岡鉄舟、前田學らに書や詩文を学び高い精神性にも精通した。ただ、1907年(明治40年)以降の文展などの展覧会には出品していない。文化功労者・前田惠學、および東京大学名誉教授・前田專學の祖母。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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