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劉仲甫(りゅう ちゅうほ、刘仲甫、生没年不詳)は中国宋代の囲碁の名手で、哲宗、徽宗の頃の人。山東省済南生まれ、字は甫之。宋代を代表する国手と呼ばれ、囲碁論「棋訣(棋訣四篇)」の作者としても知られる。 ==経歴== 若い時から囲碁の才能を発揮し、故郷を出て浙江省の銭塘へ出る。この土地の打ち手を負かして実力を認められる。その後は首都で20余年無敵を誇り、また官位も得て、国手と呼ばれた。 晩年になって「棋訣」を著す。1094年(元祐9年)の正月に、劉と当時の強豪である王玨、楊中和、 孫先の4人が集まり、2人ずつ組んで連碁を打った。 王憨子という若者が実力で劉に迫るようになったが、王は劉と対戦の機会を得られないまま夭逝し、「劉が王を祈り殺した」と噂された。晩年になって普子明という若手が現れ、劉は普と対戦して、生まれて初めて4連敗する。劉は娘を嫁にして欲しいと頼んだが、普には既に妻がいて断られた。劉は自分の時代が去ったことを知って寝込み、一か月後に死去した。普は王憨子が死んだ年の生まれで、普は王の生まれ変わりであり、王の仇を取ったのだと噂された。 棋譜は、『忘憂清楽集』に、前述の連碁を含めて3局が収められている。 ;逸話 銭塘に出た時、劉は泊まっていた旅館で「私に先で打つ者を求めている。勝った者には陳列した品を進呈する」と張り紙を出した。市内から多くの強豪が集まり、その中から最も強い者が対戦者に選ばれた。50数手まで進んだ時には白(劉)が非勢のように観衆の目に映った。さらに20数手進んだ時に劉は急に盤面を崩してしまい、観衆は「負けをごまかすのか」と非難した。劉は「先刻の碁は黒が優勢のように見えるが、次の白の一手により、白の10数目勝ちとなる。」と話した。誰もその一手が分からず、劉がその手を示しても理解できなかった。さらに劉が「20手ほど進むとこの手が働くのだ」と言ったので、観衆が打ち進めてみると、たしかにその通りになって白が優勢になり、最後まで打ってみると白が13目勝ちとなった。 都での碁会に劉が出席していた時、浙江省衢県の県令祝不疑が出席し、劉と対局した。初め劉が先番で3目勝ち、次に祝が先番で打とうと言うと、劉は五子の手合と言ったが、祝の先番で打ち進めると劉は驚き、強豪として有名な衢県の祝不疑であると悟った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉仲甫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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