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劉尚清[りゅう しょうせい]
劉 尚清(りゅう しょうせい)は中華民国の政治家。当初は北京政府・奉天派に属し、後に国民政府に転じた。字は海泉。 == 事跡 == 20歳で附生(府・州・県で採用された生員)となり、塾で学生を教えた。1911年(宣統3年)、東三省督署度支部で任用される。その後、東三省官銀総弁に昇進した。以後、張作霖の奉天派において文官として出世していく。 1919年(民国8年)、黒竜江省財政庁長署理となる。翌年6月に正式に財政庁長に任命され、さらに永済官銀号総弁も兼ねた。1925年(民国14年)9月、中東鉄路(東清鉄道)督弁に異動する。1926年(民国15年)秋、奉天省省長兼財政庁長に昇進し、11月には省立東北大学校長も兼ねた。1927年(民国16年)6月、張作霖に北京政府農工総長として起用された。 張学良による易幟を経た1929年(民国18年)1月、劉尚清は東北政務委員会委員に任じられた。翌1930年(民国19年)12月、国民政府中央で内政部部長に抜擢された。その後も中央政治会議委員、国民政府委員、救済水災委員会委員、全国経済委員会委員を歴任・兼任している。1932年(民国21年)からは、北平政務委員会委員、軍事委員会北平分会委員を歴任した。1937年(民国26年)4月に、安徽省政府主席に任じられたが、同年11月までに辞任している。1941年(民国30年)、監察院副院長に任じられた。 1947年(民国36年)2月20日、療養先のニューヨークで病没。享年80。
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