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明帝(めいてい)は、南朝宋の第6代皇帝。姓は劉、名は彧。字は休炳、小字は栄期。 == 生涯 == === 即位前 === 439年10月、宋の文帝劉義隆の十一男として生まれた。448年、淮陽王に封じられた。452年7月、湘東王に改封された。453年、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、劉彧は驍騎将軍の号を受け、給事中の位を加えられた。孝武帝が即位すると、劉彧は秘書監となり、冠軍將軍の号を受け、南蘭陵下邳二郡太守となり、領石頭戍事をつとめた。454年、南彭城東海二郡太守に転じ、京口に駐屯した。455年1月、建康に召還されて中護軍となった。11月、侍中となり、遊撃将軍の号を受けた。456年、衛尉に転じ、左衛将軍の号を受けた。457年1月、中護軍に転じた。459年、都官尚書となった。463年、領軍将軍の号を受けた。464年2月、使持節・都督徐兗二州豫州之梁郡諸軍事・鎮北将軍・徐州刺史として出向した。7月に建康に召還されて侍中となり、9月に再び領軍将軍となった。 465年1月、使持節・散騎常侍・都督南豫豫司江四州揚州之宣城諸軍事・衛将軍・南豫州刺史として出向し、姑孰に駐屯した。6月、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵諸軍事・寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。9月、開府儀同三司の位を受けた。 劉彧の甥である前廃帝劉子業は、礼に反した行為が多く、大臣多数を殺害して、人心を失った。劉彧は腹心の阮佃夫や李道児とひそかに協議して劉子業の廃位をはかった。11月29日夜、阮佃夫や李道児は寿寂之らと結んで劉子業を後堂で殺害した。劉彧は建安王劉休仁に西堂に迎えられて御座につき、大臣たちを召見した。即位前であったため、令書と称して国事を決裁し、豫章王劉子尚・山陰公主らに死を賜った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明帝 (南朝宋)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Ming of Liu Song 」があります。 スポンサード リンク
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