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劉懐粛(劉懷肅、りゅう かいしゅく、生年不詳 - 407年)は、東晋の軍人。劉裕の母方の従兄にあたる。本貫は彭城郡。 == 経歴 == 貧家に生まれて、耕作に従事しながら、学問を好んだ。はじめ劉敬宣の下で寧朔府司馬となり、孫恩の乱を討って、戦功を挙げた。龍驤司馬・費県令となった。403年(元興2年)、劉裕が桓玄を討つべく起兵すると、懐粛は県令の職を棄てて劉裕のもとに駆けつけた。 404年(元興3年)、劉裕が建康を平定すると、振武将軍劉道規が桓玄を追撃したが、懐粛はその下で司馬となった。桓玄は何澹之や郭銓らを桑落洲にとどめて守らせていたが、劉道規と懐粛は進撃してこれを破った。桓玄の部将の劉統・馮稚らが尋陽を落とすと、懐粛は劉毅の命を受けておもむき、これを撃破した。高平郡太守に任じられた。桓玄が斬られ、甥の桓振が江陵を陥落させると、劉毅・何無忌らは尋陽に撤退した。懐粛は江夏相の張暢之とともに何澹之を西塞に攻撃して破った。楚の鎮東将軍馮該が夏口の東岸に駐屯し、孟山図が魯山城に拠り、桓仙客が偃月塁を守って、連係して阻止線を張った。懐粛は劉道規とともにこれらを攻撃すると、2城を陥落させ、馮該を石城に敗走させ、桓仙客を生け捕りにした。 405年(義熙元年)1月、桓振が敗走すると、懐粛は劉道規の命を受けて石城を平定し、馮該とその子の馮山靖を斬った。3月、桓振が再び江陵を襲撃し、荊州刺史の司馬休之が逃亡すると、懐粛は雲杜県から昼夜兼行で駆けつけ、桓振の軍に対して突撃した。流れ矢で額を負傷しながらも奮戦し、桓振を斬首した。江陵が平定されると、司馬休之が江陵に帰還して、懐粛の手を取って謝辞を述べた。楚の輔国将軍符嗣・馬孫・龍驤将軍金符青・楽志らが江夏に駐屯していたため、懐粛はこれを攻撃して、楽志らを斬首した。劉道規により督江夏九郡を命じられ、夏口に駐屯した。通直郎の位を受け、輔国将軍・淮南歴陽二郡太守となった。 406年(義熙2年)、太守のまま劉毅の下で撫軍司馬を兼ねた。功績により東興県侯に封じられた。この冬、桓石綏・司馬国璠・陳襲が胡桃山で兵を集めて反乱を起こすと、懐粛は兵を率いてこれを撃破した。長江と淮水のあいだの諸民族や桓氏の残党に対して、懐粛は自ら討伐を志願したが、すでに反乱の実態を失っていたことから、劉毅は上表して懐粛を免官させた。407年(義熙3年)、懐粛は死去した。左将軍の位を追贈された。 子がなく、弟の劉懐慎の子の劉蔚祖が封を嗣いで江夏郡内史となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉懐粛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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