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劉 琰(りゅう えん、? - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の人物。蜀漢に仕えた。字は威碩。豫州魯国の出身。 == 生涯 == 『三国志』蜀書劉琰伝によれば、劉備が豫州刺史の時に仕官し従事となった。劉備は彼が風流で言論に巧みであり、同姓だったこともあって、彼を賓客として遇した。214年、劉備入蜀後は固陵太守に任命された。 劉禅の代になると、都郷侯に封じられた。やがて、衛尉・中軍師・後将軍に昇進した。後、車騎将軍と昇進を重ねた。 しかし国政には参与せず、常に兵千人を領有するのみで、諸葛亮などの周りで批評や建議などを主に行なっていたといわれる。また、贅沢な生活を送っていたとする記述も多い。 魏延と折り合いが悪く、そのため諸葛亮によって更迭され、官位はそのままで成都に戻された。 その結果、劉琰は生きる希望を失い恐れ慄いていた。妻の胡氏が皇太后呉氏のところへ正月の挨拶に行った際、皇太后の命令で1ヶ月もの間彼女が留められて戻って来なかったことから、劉琰は妻と後主(劉禅)の姦通を疑い、妻を鞭打ち靴で顔面を叩いた上、強制的に離縁した。 このため胡氏は、夫から受けた仕打ちを告訴したので、劉琰は逮捕投獄され、処刑されて晒しものとなった。この事件後、蜀では重臣の妻や母による正月の挨拶は行われなくなった。 小説『三国志演義』では、この事件は第115回、蜀滅亡直前の話になっており、劉禅の昏君振りを強め、亡国を暗示するエピソードとして扱われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉エン (威碩)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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