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劉 粲(りゅう さん)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第4代皇帝。昭武帝劉聡の次男、子は劉元公〔『資治通鑑』第90巻・晋紀12より。〕。少主とも。祖父の代からの元勲を誅殺したため、劉粲の代に漢の国力は衰え始めた。 ==生涯== 河瑞2年(310年)、父が伯父の劉和を殺害して帝位を簒奪すると、河内王に封ぜられた。さらに、撫軍大将軍・都督中外諸軍事を歴任した。 312年に、異母兄の劉易と族父の劉曜ともに父の命を受けて、鮮卑拓跋部の大人拓跋猗盧と結んだ西晋の劉琨を討伐して、その本拠地の晋陽を攻撃した。彼らは劉琨の父母を殺しその城を占拠した。さらに西晋の長安を攻略する戦功を挙げた。その功で、丞相・大将軍・録尚書事に昇格し、晋王に栄封された。やがて相国・尚書令に大昇格した。 やがて劉粲は皇太子の座を狙うために、継母の靳皇后の養子となり、その父の靳準と父の寵臣である宦官の王沈らと共謀して、季父(末の叔父)である皇太弟の劉乂を謀反の誣告によって罪を着せた。さらに北海王に降格された劉乂を殺害して、太子・大単于の地位を手に入れた。 劉聡の寵愛を受けた王沈を列侯に封じたい意向があると知ると、異母兄の劉易と祖父の光文帝劉淵の代からの重臣である御史大夫・陳元達はこれに反対して諌言した。しかし、劉粲が参内すると「王沈は清廉な人物である」と褒めて、父帝の機嫌を取った。 麟嘉3年(318年)6月に父が崩御すると即位した。だが隠帝は亡父同様に酒色に溺れてしまい、全ての政務を靳準に委ねた。即位からわずか1ヶ月で靳準の謀反によって、太子の劉元公とともに殺害された。 靳準は自ら漢天王に即位し、昭武帝と光文帝の棺を暴いて、これをズタズタに切り刻んでしまい焼き払ったという。また靳準は隠帝の妻子を皆殺しにして、好き放題を行ったが、劉曜と石勒の討伐を受けて一族もろとも惨殺された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉粲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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