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文帝(ぶんてい)は、南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟に当たる。 == 経歴 == 即位以前は宜都王の地位にあった。424年、兄の義符が不行跡を理由に廃されて殺されると、代わって即位することとなった。 即位後は、兄を廃して殺した罪で徐羨之らの重臣を次々と粛清した。その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興する。このような経緯から、文帝の治世において学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は元嘉の治と呼ばれている。 対外政策においては、名将檀道済を用いて北魏としばしば争ったが、431年に和睦を結ぶことで、一時的な平和を迎えることとなった。しかし北魏が華北を平定して国内を固め、文帝が檀道済を讒言により誅殺してしまうと、450年に和睦は破棄されて、宋は北魏の侵攻を受けることとなる。一時的に撃退したものの、北魏軍の勢いは凄まじく、遂には長江北岸の瓜歩山(現在の安徽省六合県)にまで侵攻されてしまう。このため、宋は大いに乱れることとなった。 453年、文帝は長子である皇太子の劉劭によって殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文帝 (南朝宋)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Wen of Liu Song 」があります。 スポンサード リンク
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