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劉翼飛[りゅう よくひ]
劉 翼飛(りゅう よくひ)は中華民国の軍人。奉天派に属した。旧名は輔庭。字は鑄宇。別号は覚僧、痩侠。後に翼飛と改名した。 == 事跡 == 1908年(光緒34年)、奉天陸軍小学に入学する。在学中の1910年(宣統2年)に中国同盟会に加入した。その後、北京清河陸軍中学に転学してこれを卒業している。1916年(民国5年)8月、保定陸軍軍官学校第5期歩兵科に入学した。1918年(民国7年)9月に卒業し、以後、張作霖率いる奉天派で軍歴を重ね、1926年(民国15年)には安国軍で師長にまで昇進している。 1928年(民国17年)、張作霖死後の張学良による軍の再編において、東北陸軍歩兵第4旅旅長に任じられた。1930年(民国19年)には東三省兵工廠廠長に任じられ、翌年1月、察哈爾省政府主席となり、1932年(民国21年)8月までその地位にあった。以後、国民政府軍事委員会北平分会委員に任じられ、張学良の下で対日防衛にあたっている。しかし、1936年(民国25年)12月の西安事件により張学良が失脚すると、劉翼飛もまた下野を余儀なくされた。 日中戦争(抗日戦争)勝利後に、劉翼飛は華北先遣軍第1軍軍長として復帰し、後に三民主義促進会に加入した。中華人民共和国成立後は大陸に留まり、天津市政治協商会議委員などをつとめた。 1968年7月28日、病没。享年76(満74歳)。
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