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劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳與。幼名は寄奴。彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山県)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。 == 生涯 == === 出自と幼少・青年期 === 劉裕は漢の高祖劉邦の弟である楚の元王劉交の子孫を自称していたが、元来は東晋の下級官吏の出身であり、実際の出自は不明である。北朝人の魏収が編纂した『魏書』島夷劉裕伝では、異説として楚の項羽の叔父である項伯の子孫で劉裕の本の姓は項であり、後に劉に改めたとも述べている。また、本籍地が2つあるのはこの時代珍しくなく、曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移ったためである。 生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。劉裕が生まれた夜、不思議な光が部屋を照らし、父親の劉翹はこのことを不思議に思い、劉裕に奇奴という幼名を名付けたという。困窮した幼少時代であったとされ、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、劉裕は口減らしに父に絞め殺されかけたこともあったという。また、別の説では見かねた義理の姉が代わりに劉裕へ乳を与えていたというエピソードも残っており、そこから幼名を寄奴に改めたとされている。 父も劉裕が10歳の時に死去、わずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。劉道憐・劉道規は異母弟、隣接する彭城県安上里に住した東晋の左将軍で東興県侯の劉懐粛は従兄弟に当たる〔『宋書』武帝紀〕。 成長した劉裕は気性が大変激しく、しかしその一方で器量も大きく、身分不相応な大望を持っていたという〔駒田『新十八史略4』、P143〕。学問には全く興味を示さず知っている文字は4つか5つほどしかなく、好きなものは博打という無頼の徒も同然だった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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