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劉貞[りゅう てい] 劉 貞(りゅう てい、生没年不詳)は、前漢の皇族。第6代皇帝景帝の孫で、孫も含む120人以上の子沢山だった中山靖王・劉勝の庶子。三国時代の蜀(蜀漢)の劉備の先祖にあたる〔『典略』(魏略)では、「劉備は臨邑侯(劉縯の孫・劉復? 劉楊の弟・劉譲?)の分家である」と記されている。〕。封号(爵位)は陸城亭侯〔『漢書』「王子侯表」では陸城侯および陸成侯と記されている。また、清の学者毛綸・毛宗崗父子が著した『毛宗崗本』(毛本)によると、涿鹿亭侯と記されている。〕。 『三国志』「蜀書先主伝」によると、彼は紀元前117年に叔父の武帝から涿(たく)郡涿県(現在の河北省保定市涿州)の列侯に封じられた〔盧弼の『三国志集解』で注を引く潘眉(清の史学者)の説によると、『漢書』「王子侯表」に基づいて、劉貞は紀元前127年に陸成侯(陸城侯)に封じられ、紀元前112年に廃されたと記されている。同時に陸成侯の領土は冀州中山郡陸成県にあり、「幽州涿郡陸城県」にあるとするのは誤り。前漢の時代には「亭侯」は存在しておらず、「亭侯」は後漢以来の爵位の制度であるとしている。その一方、周振鶴(中国の学者)『西漢諸侯王国封域変遷考(下)』第八章第10節では「劉貞が封建されたときは、陸城県は涿郡に属しており、成帝治世の綏和元年(紀元前8年)には中山国に属され、したがって「涿県」は「涿郡」の訛りと見られる」と述べている。〕。 紀元前113年に父・劉勝が逝去し、翌年の年始(正月)に、劉貞が参内した時に列侯に課された漢朝への上納金(酎金)が規定を満たさなかった廉(かど)で、侯の地位を召し上げられてしまった。劉貞はその後、封地であった涿に豪族として代々住居していたという〔裴松之は「臣(わたし)は考える。先主(劉備)は孝景皇帝の血筋だとしても、はるか遠い世代で代々宗廟を祀るのは困難だった。すでに漢朝の継承者として、どの皇帝を始祖として親廟を建立したのか不詳である。同時に英知な人物が補佐し、学者(史官)が官職に就いていたのだから、(蜀漢の)宗廟の制度に関しては、(国の)掟があったのだろうが、記載が欠如し簡略だったのは、まことに残念である」と述べている。〕。 == 三国志演義での系譜 == また、『三国志平話』および『三国志演義』では『三国志』同様に「陸城亭侯」とされ、子の劉昴は沛侯、孫の劉禄は漳侯、曾孫の劉恋は沂水侯、玄孫の劉英は欽陽侯と、数代の間に爵禄の転封を繰り返し、劉弘の代までは官職を奉じ小豪族としての暮らし向きを保ち、劉弘が早くに亡くなり、その子劉備の代までには蓆や沓売りをする生活に落ちぶれていた。後に劉備が漢末期に活躍し、左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、漢中王、蜀漢の皇帝になるに及び、劉貞の最盛期を凌ぐ隆盛を誇った記述になっている。これは一部を除いて、演義の創作である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉貞」の詳細全文を読む
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