翻訳と辞書
Words near each other
・ 加藤俊徳
・ 加藤保太郎
・ 加藤保憲
・ 加藤保男
・ 加藤信
・ 加藤信太郎
・ 加藤信夫
・ 加藤信夫 (野球)
・ 加藤信幸
・ 加藤信行
加藤信邦
・ 加藤修
・ 加藤修 (トレーナー)
・ 加藤修一
・ 加藤修一 (陸上選手)
・ 加藤修也
・ 加藤修平
・ 加藤修甫
・ 加藤倍子
・ 加藤倫教


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

加藤信邦 : ウィキペディア日本語版
加藤虎景
加藤 虎景(かとう とらかげ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐国都留郡上野原の国衆・上野原加藤氏の一族〔平山(2008)、p.316〕。都留郡上野原城主。甲斐武田氏の家臣。駿河守〔平山(2008)、p.316〕〔丸島(2015)、p.260〕。子に景忠(嫡男)、弥五郎昌久(六男、初鹿野忠次養子)など〔平山(2008)、p.316〕〔丸島(2015)、p.260〕。諱は『甲斐国志』所引の「里長ノ家記」によれば「虎景」とするほか、信邦とする説もある〔丸島(2015)、p.260〕。
== 略歴 ==
甲陽軍鑑』によれば、武田信虎晴信(信玄)の二代にわたり仕えた。はじめ信虎に仕え、偏諱を受けて「虎景」(とらかげ)と名乗ったという。『甲陽軍鑑』によれば、武者奉行として若殿・晴信に兵法を指南していたという〔『山本勘助のすべて』(新人物往来社版、上野晴朗・萩原三雄)〕〔丸島(2015)、p.260〕。
信虎追放後は晴信の一字を受け「信邦」(のぶくに)に改名し、後から仕官してきた山本勘助(晴幸)とともに軍師的な存在として発揮したという。天文19年(1550年)の戸石城攻防戦では勘助と共に劣勢挽回に尽力。諸角虎定らを促し、逆襲を成功させている〔『山本勘助のすべて』(新人物往来社版、上野晴朗・萩原三雄著)による。〕。晴信が出家し信玄となった際、諱を「昌頼」に改めた。
「加藤家文書」によれば、、永禄4年(1561年)3月3日、越後国の上杉謙信の関東侵攻に際して、武田氏と甲相同盟を結ぶ相模国後北条氏北条氏照が当麻(神奈川県相模原市)において上杉勢に対抗するため虎景に援軍として千喜良口(神奈川県相模原市)まで出兵することを要請しており、この時点で「駿河守」を名乗っている〔平山(2008)、p.316〕〔丸島(2015)、p.260〕。その後の動向は不明。『甲斐国志』によれば、法名は実山性心禅定門〔丸島(2015)、p.260〕。
第四回川中島の戦いの際、討死した勘助の首を持ち帰ったとされている〔『北越軍談』による。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「加藤虎景」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.