|
加藤 正夫(かとう まさお 1947年3月15日 - 2004年12月30日)は日本の囲碁棋士。号は「劔正」。同じ木谷實門下の石田芳夫・武宮正樹とともに「木谷三羽烏」「黄金トリオ」と呼ばれ、名人2期、本因坊4期、王座11期など数々のタイトルを獲得し、名誉王座の称号を持つ。七大タイトル獲得数歴代3位。棋道賞最優秀棋士賞を7度受賞(歴代2位タイ記録)。 若い頃は力ずくで大石を仕留める豪腕から「殺し屋」のニックネームがあったが、棋風とは裏腹に穏和で面倒見の良い人柄で人望が厚かった。2004年には日本棋院理事長に就任、日本棋院の改革に取り組むが、2004年暮れに脳梗塞に倒れ、死去した。享年57。門下に大森泰志、岡田伸一郎、鈴木伊佐男、梅沢由香里、小山栄美ら。 妻は書家の加藤石泉〔http://yukarigo.at.webry.info/201407/article_1.html〕。妻の両親もそれぞれ書家である佐々木泰南・佐々木月花であり、佐々木泰南は木谷道場に書の指導に来ていた〔江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.228〕。 2005年2月8日、その功績により旭日小綬章追贈。 ==経歴== *1947年 (0歳) 福岡県朝倉郡朝倉町(現朝倉市)にて誕生。 *1952年 (5歳) 福岡市中央区六本松に転居。1階は店舗、2階は碁会所を父がはじめる。 *1956年 (9歳) このころ碁を覚える。この頃岡光雄(後にプロ)・上月武志(第1回学生本因坊)・廣畑富雄(九州学生選手権、後に九州大学教授)らの手ほどきを受け上達する。 *1959年 (12歳) 木谷實に入門。兄弟弟子たちと切磋琢磨し、徹底的に戦う棋風を身につける。 *1964年 (17歳) 入段。同年、二段に昇段。 *1967年 (20歳) 20歳7ヶ月(四段)で本因坊リーグ入り(当時最年少記録)。一次予選(現在の予選Cに相当)からの勝ち抜きでリーグ入りしたのは、この時の加藤と名人リーグでの三村智保のみ。また入段から3年5ヶ月でのリーグ入りは史上最短記録。 *1969年 (22歳) 本因坊リーグを5勝2敗で勝ち抜いて林海峰本因坊への挑戦権を獲得。22歳、五段での挑戦は初めてのことで注目を集めたが、2-4で敗れる。 *この後各種棋戦で挑戦者あるいはトーナメント決勝まで進むが、タイトル戦で8連敗。「挑戦王」「万年二位」「常敗将軍」と呼ばれるトンネルの時代が続く。また「藤沢秀行に続く、ポカの多い棋士」と呼ばれた〔江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.232〕。 *1976年 (29歳) 第一期碁聖戦で兄弟子大竹英雄を降して初タイトルを獲得。林海峰から十段位を奪取、以後4連覇。 *1977年 (30歳) 武宮正樹を4-1で破って第32期本因坊位を奪取し加藤劔正を名乗る。以後3連覇。書家・佐々木泰南の四女・泉と結婚〔江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.239〕。 *1978年 棋聖戦で藤沢秀行に挑戦するが3-4で惜敗。天元戦で優勝し、以後4連覇。 *1979年 本因坊、十段、天元、王座、鶴聖の五冠王に輝く。 *1981年 趙治勲名人に挑戦。 *1982年 (35歳) 橋本昌二から王座を奪取し、以後8連覇。 *1983年 趙治勲から十段位を奪取。勝った3局は全て半目勝ちで、「殺し屋加藤」から「ヨセの加藤」へとモデルチェンジに成功したといわれた。 *1986年 小林光一名人をから名人位を奪取 *1987年 (40歳) 名人、十段、王座、碁聖の四冠を達成。 *1988年 小林光一棋聖に挑戦。 *1990年 羽根泰正に敗れ王座を失う。これにより、七大タイトルの連続保持記録が途絶える。 *1993年 藤沢秀行から王座を奪取。 *1995年 趙治勲本因坊に挑戦。 *1997年 依田紀基から十段位を奪取。趙治勲本因坊に挑戦。 *2002年 (55歳) 王銘琬を破り、55歳3か月で23年ぶりに本因坊位に復位、史上最年長の本因坊となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤正夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Masao Kato 」があります。 スポンサード リンク
|