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加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日(天保7年6月23日) - 1916年(大正5年)2月9日)は、日本の政治学者、教育家、官僚。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は文学博士(1888年)、法学博士(1905年)。旧名弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、旧東京大学法理文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第二代総長を務めた。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。 == 来歴 == * 1836年(天保7年):但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士として、同藩家老をも務めた加藤家の加藤正照、妻・錫子の長男として生まれる。幼名は土代士(とよし)。 * 1852年(嘉永5年):江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。 * 1854年(安政元年):大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。 * 1860年(万延元年):蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。 * 1861年(文久元年):『鄰草』(となりぐさ)を著し欧米の立憲思想を紹介する(ただし印刷・公表されたのは明治32(1889)年である)。 * 1864年(元治元年):旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。〔小川恭一編著 『寛政譜以降 旗本家百科事典 第2巻』 東洋書林、1997年11月、832頁。〕 * 1868年(慶応4年):1月、目付に任ぜられる。 * 1869年(明治2年):新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。 * 1870年(明治3年):洋書進講担当の侍講に任ぜられる。『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。 * 1872年(明治5年):ブルンチュリの『国家学』を進講(後に『国法汎論』として翻訳出版)。 * 1873年(明治6年):明六社に参加。「民撰議員設立論争」では時期尚早論を唱えた。 * 1874年(明治7年): 『国体新論』を発表。 * 1877年(明治10年):東京開成学校綜理。旧東京大学法文理三学部綜理。 * 1881年(明治14年):7月、職制の改革によって、旧東京大学初代綜理( - 明治19年(1887年)1月)。 * 1882年(明治15年):『人権新説』を出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こした。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたと考えられている。 * 1886年(明治19年)1月11日:元老院議官 任官 * 1890年(明治23年): * 5月、旧東京大学を改制した帝国大学(現・東京大学)の第二代総長となる。 * 9月30日貴族院議員に勅任( - 明治39年(1906年)12月15日)。 * (1893年(明治26年):『強者の権利の競争』(ドイツ語にも翻訳され ''Der Kampf ums Recht des Stärkeren und seine Entwicklung'' として出版)では、強権的な国家主義を展開した。6月、帝国大学総長を辞任。 * 1898年(明治31年):高等教育会議議長 仰付 * 1900年(明治33年):男爵に叙せられ華族に列する。 * 1906年(明治39年) * 7月、初代帝国学士院長。 * 12月10日、枢密顧問官。 * 1916年(大正5年):79歳で死去。遺言により、無宗教で葬儀が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤弘之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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