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加藤 曳尾庵(かとう えびあん/えいびあん、宝暦13年(1763年)- 没年不詳〔「『我衣』とその著者」『読史余録』117頁は、文政12年(1829年)とする。〕)は、江戸時代後期の文人、医師、俳諧宗匠。幼名は平吉、名は玄亀、南竹軒とも号した。 == 人物 == 宝暦13年、水戸藩士・沼田直充の三男として、水戸に生まれる〔「『我衣』とその著者」『読史余録』112頁〕〔『コンサイス日本人名事典』338頁〕。20歳を過ぎて両親と共に江戸へ出府し、小石川の水戸藩上屋敷に入る〔。天明8年(1788年)、26歳で水戸藩を致仕し、諸国へと遊歴〔〔。 寛政8年(1796年)、再び江戸に戻る〔。時期は明らかでないが、幕府奥医師の山本永春院に医術を学んでいたところ、文化2年(1805年)、下谷の医師・加藤玄悦の看板を買い、これより加藤姓を称した〔〔「『我衣』とその著者」『読史余録』113頁〕。 江戸においては、大田南畝(蜀山人)が企画した、文人らによる古物・古画の鑑賞会である「雲茶会」の一員となり、南畝、山東京伝、山東京山、谷文晁らと交友を重ね、また曲亭馬琴、屋代弘賢、古筆了意らとも交流した〔〔『文人世界の光芒と古都奈良』17頁〕〔「『我衣』とその著者」『読史余録』114頁〕。文化12年(1815年)2月には、大黒屋光太夫に面会して終日ロシアの話を聞いたという〔。 文化13年(1816年)、田原藩三宅侯の抱医師となり〔〔「『我衣』とその著者」『読史余録』115-1166頁〕、同藩の渡辺崋山とも交友〔「『我衣』とその著者」『読史余録』116頁〕。文政2年(1819年)、田原藩を致仕し、その後は、板橋宿において手習いの師匠のかたわら医業を営んだ〔〔。 著書として、江戸の世相風俗について記した日記風の随筆『我衣(わがころも)』19巻がある〔〔「『我衣』とその著者」『読史余録』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤曳尾庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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