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加藤木重教 : ウィキペディア日本語版
加藤木重教[かふじきしげるきょう]
加藤木 重教(かとうぎ しげのり、安政4年3月15日/グレゴリオ暦 1857年4月9日 - 1940年12月1日)は、明治期の工部省技師、日本の実業家である。電友社社長、東京商業会議所議員を歴任した。
== 経歴 ==
陸奥国三春出身。家貧にして身分が低く、苦学して藩立講所に学ぶ。1871年(明治4年)、藩命により慶應義塾へ入学。海軍兵学校を目指すも年齢規程に間に合わず辞退。工学寮へ入り、工部省電信技術官へ任命される。1885年(明治18年)研究のため渡米を希望し工部省に辞職願いをだすも却下される〔『重教七十年の旅. 前編』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1887年(明治20年)東京電信学校が設置され助教授(七等技手)となる〔『重教七十年の旅. 前編』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1888年(明治21年)依願免官。渡米費用のため田中製作所(田中久重)に勤務する〔『重教七十年の旅. 前編』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1889年(明治22年)3月田中製作所を辞職して4月研究のため渡米〔『重教七十年の旅. 前編』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1890年(明治23年)7月帰国〔『重教七十年の旅. 前編』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1890年(明治23年)より1896年(明治29年)まで三吉電機工場及深川電燈株式会社に技師として勤務〔『重教七十年の旅. 前編』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕
日本工業協会設立に尽力し評議員になる。慶應義塾商業学校を支援し、慶應義塾維持寄付金募集を率先して行った。
1940年昭和15年)12月1日、死去した。満83歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「加藤木重教」の詳細全文を読む



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