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加藤 武(かとう たけし、1929年5月24日 - 2015年7月31日)は、日本の男性俳優、声優。文学座前代表。東京市京橋区出身。早稲田大学英文科卒業。俳号は「阿吽」〔加藤武さんの急死と、訃報が相次ぐ「東京やなぎ句会」 サンケイスポーツ 2015年8月3日閲覧〕。 ==来歴・人物== 1929年、築地で仲卸業を営む家に生まれる。祖母は十五代目市村羽左衛門の贔屓、両親〔母親は演芸も好きであり、三代目三遊亭円之助のファンであったようで、圓之助はたびたび「築地のおばさん」と呼んでいたという。〕 共に清元節を嗜み、姉は舞踊をやっていた。中央区立泰明小学校、麻布中学校・高等学校卒業。俳優の小沢昭一・フランキー堺・仲谷昇・なだいなだは麻布中学校の同級生だった。幼少期より歌舞伎を愛好し、学校を早退してまで歌舞伎座に通っており俳優に憧れていた。早稲田大学では演劇研究会に入り、ここで映画監督の今村昌平・俳優の北村和夫らと知り合う。 卒業後、一時教職(英語を教える)に就くも俳優への道を諦めきれず、1952年、辞職して先に北村が入団していた文学座研究所に入る。早大の同級・北村和夫とともに文学座の看板女優・杉村春子に芸をたたき込まれた。この頃に演芸評論家・作家である正岡容に出会い、小沢や落語家・桂米朝、作家・都筑道夫らと共に歌舞伎と芸のいろはを学ぶ。同年の『狐憑』が初舞台となる。1959年に正式に座員となり、『美しきものの伝説』『富島松五郎伝』などの舞台に出演した。1974年に盟友の小沢昭一や山口崇、永六輔らと芸能座を結成した。しかし、1980年に解散し、文学座に戻った。1985年には吉永仁郎原作の『芝居 月もおぼろに』を演出した。 映画には1953年の今井正監督『にごりえ』に端役で出演したことから始まり、翌年の黒澤明監督『七人の侍』では町を歩く侍役でノンクレジット出演している。1957年の『蜘蛛巣城』における都築警護の武士役や『隠し砦の三悪人』の冒頭部分で壮絶な死にざまを見せた落武者、『悪い奴ほどよく眠る』の主人公の相棒・板倉役など計8作の黒澤作品に出演した。ほか『仁義なき戦い』シリーズの優柔不断な親分・打本昇役でも知られる。『犬神家の一族 (1976年の映画)』、『悪魔の手毬唄』を始めとする金田一耕助シリーズでは役名が毎回異なるものの、粉薬を手放さず大仰な身振りで「よしっ!分かった!」と手をポンと叩きながら早合点を繰りかえす警察幹部を演じ、野村證券のCMでも使用された。金田一耕助シリーズの市川崑や黒澤、浦山桐郎、今村昌平らの監督に重用された。 テレビドラマでは1970年代にNHKで放映された『警部マクロード』の上司役でのアテレコ、時代劇では『真田太平記』の本多忠勝、『風林火山』の諸角虎定など、歴史上の人物を演じている。 1976年10月から1977年3月まで、TBSラジオのナイターオフ番組『山田二郎ワイドで勝負!90分』の番組内にて『加藤武のラジオ国語辞典』と題するラジオ番組のディスクジョッキーを担当していたこともあった〔 ラジオ東京スピリッツ〕。 映画『釣りバカ日誌』では主人公・浜崎伝助の務める鈴木建設の秋山専務役、リメイク版『日本沈没』では地球物理学学者に扮したほか、2006年に映画『犬神家の一族』が30年ぶりにリメイクされた際には、オリジナル版と同じ役で再登場。バラエティ番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)の1コーナー「クイズよしっ分かった!」のモデルとなり、レギュラー出演もしていた。 晩年も文学座の俳優として舞台で活動するほか、海外ドラマやアニメへの声優としての出演作も多数あり、また徳川夢声以来となる吉川英治の『宮本武蔵』の朗読にも取組んでいた。 2010年に戌井市郎が死去した後に文学座代表代行に就任、2015年5月に正式に文学座代表に就任していたが、同年7月31日、スポーツジムのサウナで、心疾患の発作〔: 芸能 : スポーツ報知 〕を引き起こした後倒れ、搬送先の東京都内の病院にて死亡が確認された。。葬儀は密葬で行われた〔「犬神家の一族」で警察官役:朝日新聞デジタル 〕。戒名は「無相院阿吽演武居士(むそういんあうんえんぶこじ)」と、道号には俳号であった「阿吽」が使われている。 主演予定だった舞台『すててこてこてこ』は、坂部文昭が代役を務め、「加藤武追悼公演」として公演された。 2015年10月5日、江守徹を発起人として、劇団葬が執り行われた。加藤亡き後の文学座代表は江守徹が2016年に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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