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加藤 淑子(かとう としこ、1915年 - )は、ロシア料理店スンガリーの店主。 == 生涯 == 1915年、京都府に呉服商の娘として生まれる。京都市立堀川高等女学校卒業。 1935年に加藤幸四郎と結婚する。その直後、満州に移住する。幸四郎は満州国の特務機関員をしていたとの情報がある〔藤島桓夫と加藤登紀子の父 マーキュリーレコード - その19 〕。白系ロシア人宅に間借りして住んでいたこともある〔命の手応え 加藤淑子(元レストラン「スンガリー」経営者) - 到知出版社 〕。1943年ごろ、幸四郎が徴兵される。終戦直後、収容所生活となる。ソ連軍兵士が土足で入ろうとした際、毅然と「ここは私たちの眠る場所です。畳の上を靴で歩かないでください」と注意する〔命の手応え 加藤淑子(元レストラン「スンガリー」経営者) - 到知出版社 〕〔旧満州からの引き揚げ ~知床旅情秘話(7) - 読売新聞 〕 。 1946年秋、日本に帰国する。無事だった夫・幸四郎に再会し、一家5人の生活がスタートする。夫はレコード会社に勤務し、淑子は洋裁の仕事につく。 1957年、幸四郎が東京新橋にてロシア料理店『スンガリー』を創業し、淑子も店に出て働く。当時の料理長は白系ロシア人であり、ロシア人女性がウェートレスとして働いていた〔ヨコハマな日々 - スンガリー新宿東口本店 〕。1958年には、『スンガリー』は京橋に移転し、1960年には、新宿に移転することとなる。1966年、娘の加藤登紀子が歌手デビューを果たす。1967年には、スンガリー新宿東口店が実現する。1972年、京都に『キエフ』をオープンさせる。『日本ロシア料理店協会』の設立に携わる。スンガリーの経営者として、淑子が注目されるようになる〔旧満州からの引き揚げ ~知床旅情秘話(7) - 読売新聞 〕。 1992年、幸四郎が82歳で死去する。その後もスンガリーの経営に、娘の加藤幸子や加藤登紀子らと参加し続けていたが、しばらくして引退している。 2006年8月に、藤原書店より著書『ハルピンの詩がきこえる』を出版する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤淑子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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