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加藤清二郎 : ウィキペディア日本語版
加藤清二郎[かとう せいじろう]
加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1982年9月24日)は、レストラン聚楽の創業者で、昭和時代に飲食業で成功した実業家。小さな洋食店から、第二次世界大戦までに数十店舗を抱える一大チェーングループに育て、「食堂王」とまで呼ばれた〔村史こぼれ話 弥彦村〕。
== 略歴 ==
新潟県中蒲原郡白根町(現・新潟市)の商人の子として生まれる。小学校卒業後、新潟市の海産物屋「島二」に丁稚奉公に出る。実業雑誌を愛読し、安田善次郎の「学問より実地が大切」を拠り所に、3年間奉公する。年季を終えたあと志願兵となり、2年ののち除隊。相場に手を出して失敗し、親族・縁者に迷惑をかける。肩身の狭い実家住まいをしているとき、樺太の軍事占領によりひと儲けした商人が出ていることを知り、親に金を借りて24歳で樺太に渡ったものの、商機を逃し、当地で軍役夫となる。半年間土工として働いて蓄えを作り、帰郷したが、再び相場に手を出し、失敗〔。
1922年(大正11年)、上京。森永製菓の特約店「平野商店」の配達夫として就職。その後外交員に昇格し、外回りをしているうちに、適当な安食堂がないことに気が付いた。当時の大衆食堂は、値段は安いが設備が悪く不衛生で、背広を着るような職業の人間には入りにくかった。そこで食堂の経営を思いつき、浅草公園で繁昌していた安洋食屋「三友軒」に修行のため転職するが、皿洗いと雑役の長時間労働に耐えられず2か月で辞めて日雇い人夫となる〔。
1923年(大正12年)に軍役夫募集を知り再び樺太へ渡り、蓄えを作って半年後東京に戻る。関東大震災で焼け野原となった東京は、新商売を始める好機と思い、バラック建設をしていた兄とともに親をくどいて資金を調達し、神田須田町の交差点脇に土地を借り、店の建築を兄にまかせ、自分は再び「三友軒」で働いた。1924年(大正13年)3月、店が完成し、きれいで安い大衆食堂「須田町食堂」を開店した。従業員8名は全員新潟出身、席数25、カツレツとカレーライスが売りの洋食店だった〔聚楽の歴史は日本の洋食屋の歴史でもある 巻タリアンニュース第28号、巻高校同窓会〕。店は初日から大繁盛となり、11月には京橋に支店を開いた。翌年には、日本橋銀座上野浅草に支店を出し、その後も続々と支店を作り、本部で大量仕入れや食材加工をして原価を抑えるチェーンストア方式をとった〔野沢嘉哉『趣味の立志伝』 (有艸堂、1939年)〕。
以降毎年4~5店のペースで支店を増やし続け、昭和10年代には89店まで増えた〔会社情報:沿革 聚楽〕。昭和30年代には弥彦ロープウェー開業、ホテル業にも進出。社名を聚楽と改め、事業を拡大していった。
1964年(昭和39年)から1980年(昭和55年)まで、東京新潟県人会会長を務めた〔東京新潟県人会 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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