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加賀山 之雄(かがやま ゆきお、1902年12月30日 - 1970年8月7日)は、日本の鉄道官僚、第2代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1949年-1951年)。 == 来歴・人物 == 福井県大野郡大野町(現在の大野市)生まれ。大野中学、一高、1927年(昭和2年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業。4月12日から鉄道省に配属される。1932年(昭和7年)10月17日に十河信二の娘と結婚。その後、運輸省鉄道総局長官などを経て1949年(昭和24年)6月1日の国鉄発足時、副総裁に就任する。当初は総裁の予定だったが、GHQが「戦中にベルリンの滞在が長かった」として難色を示し、アメリカ視察の経験があり、GHQが米国通と評価していた下山定則が初代総裁となった〔実際には両者とも1936年から1937年まで同じ期間外遊しており、ベルリンにぎりぎりまで滞在していた加賀山と島秀雄に誘われて南アフリカや南米を回っていた下山とは数ヵ月の旅程の違いでしかない。高橋団吉『島秀雄の世界旅行』技術評論社〕。しかし、同年7月6日に下山が轢死体で発見される下山事件が発生すると、急遽総裁代行に就任することになる。その後、同年9月24日総裁に就任した。 だが、労使の対立が先鋭化していた国鉄ではその後も下山事件に続いて、三鷹、松川事件が起き、1951年(昭和26年)4月24日に発生した桜木町事故で、国鉄は世論から轟々たる非難を浴び、加賀山は責任を取って、同年8月24日に辞任した。 1952年(昭和27年)9月には鉄道会館社長となった。 1953年(昭和28年)5月1日に行われた第3回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で立候補し当選。当選後は緑風会に所属し、1965年(昭和40年)に引退するまで2期務めた。 力道山の後援者としても知られ日本プロレス協会理事を務めた。 1970年(昭和45年)8月7日死去。享年68。甥に加賀山朝雄がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加賀山之雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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