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加賀野井城 : ウィキペディア日本語版
加賀野井城[かがのいじょう]

加賀野井城(かがのいじょう)は、岐阜県羽島市にかつて存在した日本の城加賀井城とも書かれる。加賀井氏の居城として使われ、現在はわずかに城跡が残されているのみだが、県の史跡に指定されている。地元の伝承では城の井戸木曽川の中ほどにあるといい、1586年天正14年)の洪水1608年慶長13年)の御囲堤築造に伴う治水工事で城郭・城地の大半を失ったと推定されている。
== 歴史 ==
加賀井氏は織田信長信雄に仕え、加賀井重望は信雄から加賀野井郷の知行を宛がわれていた〔『織田信雄分限帳』〕。1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは加賀野井城でも合戦があり、重望をはじめ小坂雄吉ら2000人余が城を守っていた。5月4日6月12日)には羽柴側の大軍が城を包囲した〔『家忠日記』〕。これに対して、5月5日6月13日)に織田信雄は羽柴秀吉が冨田寺に本陣を構えて加賀野井城を包囲しようとしている事を不破源六に伝え、旧7日6月14日)には源六による加賀野井への後詰要請を徳川家康にも伝えた事も書き送っている〔『不破文書』〕。しかし秀吉側は5日には竹ヶ鼻および祖父江(現・愛知県稲沢市祖父江町)近辺に放火し、加賀野井城の外構を破ってを残すのみになり、これを木下重堅に報じている〔『池田文書』〕。加賀野井城は7日に落城して将兵は断首され、続いて奥城も落ち、翌旧10日6月18日)には竹ヶ鼻城も攻略予定に入った〔天正12年5月9日1584年6月17日)付 『毛利輝元宛秀吉書状』〕(竹ヶ鼻城の水攻め)。この際、秀吉は尾張国西部の要衝である加賀野井城を落とすことで家康自身の出陣を誘い、直接対決を目論んでいたとされる。
加賀井重宗・重望の親子は7日に城から突撃し、脱出に成功している。その後は秀吉から登用の誘いを受けて重望が仕え、1599年慶長4年)には加賀野井に8,000石の知行があったが〔『諸大名・旗本分限帳』〕、1600年(慶長5年)に除封された。同年の関ヶ原の戦いでは、福島正則が加賀野井城の付近で渡河を行なっている(竹ヶ鼻城の戦い)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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