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輪中(わじゅう)は、集落を洪水から守るために周囲を囲んだ堤防。また、堤防で囲まれた集落や、それを守るための水防共同体も指す〔輪中(ワジュウ)とは - コトバンク 〕。 岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とその支流域の扇状地末端部から河口部に存在したものが有名。この地域では、曲輪(くるわ)、輪之内(わのうち)とも呼ばれる。加納輪中や室原輪中のように、集落が山裾や高位部に接していて、上流側からの大量の水が流入する可能性が低いため、その部分に大きな堤防を持たないものもみられるなど、完全に堤防に囲われていない例外もある。 == 歴史 == 輪中の記述が登場する最も古い文献は、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅有の旅日記「春の深山路」である。原文「此所のやう、河よりははるかに里はさがりたり。まへにつゝみを高くつきたれば山のごとし。くぼみにぞ家どもはある。里の人のいふやう、水いでたる時は、ふね此つゝみの上にゆく。空に行(く)舟とぞみゆると云(う)をきけば、あまのはとふねのとびかりけんも、かくやとぞ聞ゐたる。」、現代語訳「このあたりでは、川よりも里の方がずっと低くなっている。里の前には堤を山のように高く築き、家々は窪みの中にある。里の人がいうには、水が出たときには舟は堤の上を行く。まるで舟が空を行っているように見える。これを聞いて、神話に出てくる天の鳩舟のことを思い出した。」とある〔榎原雅治著「中世の東海道をゆく」(中公新書 2008年4月25日)P.74~76「輪中の誕生」より。但し同書には天孫降臨神話とあるが、天孫降臨に舟は登場しないので、出雲の国譲りの神話に登場する天鳥船か、先代旧事本紀の饒速日命の河内への降臨の神話で乗ったという天磐船の事かと思われる。〕。弘安三年(1280年)には輪中が成立していた。但しこの輪中が後の時代まで継続して存在していたかは別の問題である。他の記録としては、『百輪中旧記』に鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に下流部からの逆水を避けるための潮除堤を追加し集落全体を囲う懸廻堤を有する最初の輪中である古高須輪中が完成したとされている。しかし『百輪中旧記』は、明治以後に成立した村の名が登場するとか、古木曽川の推定流路から見て高須輪中の成立は慶長(1596年~1615年)以前にはさかのぼれないなどの問題があり、資料としての性格は根本的に疑われている〔「中世の東海道をゆく」P.75〕。輪中を維持管理するための社会構造が鎌倉時代には存在できないと唱える者もおり、実際に古高須輪中が完成したのは江戸時代初期であるとされる〔輪中 その構造と展開〕。 初期に成立した輪中についてはその正確な年代を特定する文献が乏しいが、輪中には内水による災害の危険が伴うため、排水路が整備された年代などからその成立時期が推定されている。その後周辺の集落もこれに習い明治時代中ごろまでに順次造られた。研究者の定義により差異はあるが、最終的に1,800km2の面積に及び、数は80ほどに達した〔輪中と治水〕。時代が下ると大垣輪中や多芸輪中など、大きな河川に対して利害が一致する輪中同士がその河川に対する堤防を共有したり、旧来の輪中の外側の湿地帯や河川敷で新田開発のため新たな輪中が形成されるなどして内部に輪中構造を持つ複合輪中も誕生した。これに対して内部に輪中堤を持たない輪中を独立輪中と呼ぶ。複合輪中は外側の河川に対する堤防を持つ輪中として外郭輪中とも呼ばれた。これに対して外郭輪中の内側に含まれる輪中は内郭輪中と呼ばれた。ただし、堤防が共有される場合でも水防に関して独立している場合は複合輪中とは見なされない。 江戸初期に御囲堤が尾張の木曽川沿いに築かれ、木曽川から尾張側へ流れる河川が締め切られることにより木曽川の水量が増して水害が起こりやすくなった。また、木曽川西岸の堤防は御囲堤よりも3尺(1m)低くしなければならない、御囲堤の修繕が終わるまで対岸の堤防の修理を控えなければならないといった不文律もあったため(異説あり)水害が絶えず、美濃で特に輪中が発達することとなったと言われる。ただし御囲堤は国境よりも東側にあり、また木曽川の河口までは延びていなかったため尾張国内でも弥富市などの御囲堤に守られていなかった地域には多くの輪中が造られている。更に美濃側の木曽三川下流域は、天領、旗本領、尾張藩領、高須藩領、大垣藩領、加納藩領その他の領土が混在し共同して治水に当たることが難しかったことも一因として挙げられる。 輪中地域は傾斜が少ない氾濫原で、多くの領域は潜在的な遊水地となりえた。そのため輪中の形成は遊水地の減少を意味し、近隣地域の水害の危険性を高めることとなった。また、以前は輪中内の地域に流れ込んでいた土砂が、輪中の形成により河川に堆積し天井川になるという悪影響もあった。そのため以前は洪水に見舞われなかった上流域も水害の危険が増し、順次輪中が形作られていくこととなった。しかし前述の通り、輪中の形成により遊水地が減少することから近隣の輪中は新たな輪中の形成には強く反発した。その例として松枝輪中があげられる。また河口部では新田を開発するため河口部を干拓することによって新たな輪中が作られた。 明治時代に入って木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした。また戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、ほとんど残っていない。 現在でも残る一部の輪中堤防は洪水の際に利用されることがある。昭和51年(1976年)9月12日に起きた水害(通称:9.12水害)では輪之内町の福束輪中の水門を締め切ることでその内側は水害から免れることができた。近年、洪水に対する減災の観点から見直され、京都府由良川流域や青森県馬淵川流域等で採用されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「輪中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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