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労働者階級戦闘団[ろうどうしゃかいきゅうせんとうだん]
労働者階級戦闘団(ろうどうしゃかいきゅうせんとうだん )とは、ドイツ民主共和国(東ドイツ)で組織されていた民兵である。単に戦闘団(Kampfgruppen, KG)と呼ばれる事もあった。1953年に設立され1990年のドイツ再統一に伴って解散した。最盛期にはおよそ400,000人もの義勇兵が所属していた。 ==歴史==
1953年6月16日の東ベルリン暴動を受け、ドイツ社会主義統一党(SED)では更なる暴動を阻止するべく、労働者の中に党の支配を行き渡らせる様々な政策を考案した。政治的に信頼しうる労働者による党指導下の民兵編成もまたその一環で、この民兵組織には労働者階級戦闘団(Kampfgruppen der Arbeiterklasse, KdA)という名称が与えられた。KdAのモデルとなったのは、チェコスロバキア共産党の権力掌握に貢献したであり、ドイツ民主共和国内において同等の役割を果たす事が期待された。1953年9月29日より正式に編成が始まった。その存在が初めて公表されたのは、1954年5月1日のメーデー記念式典におけるパレードであった。 1957年にはKdA指導者中央学校がシュマーヴィッツに設置された。KdAの機関紙「Der Kämpfer」は、SEDの機関紙と共にノイエス·ドイチュラント出版社によって月刊で発行されていた。KdAの活動として最もよく知られているのは1961年夏から秋にかけて行われたベルリンの壁建設工事であろう。最も練度が高く、また政治的に信頼されていたザクセン州のKdAがテューリンゲンから東ベルリンにかけての建設作業及び市街警備に参加した。この作業にはドイツ民主共和国における全軍事組織の20%が参加し、KdAからは8000人以上が参加した。しかし、士気や政治的信頼性が共に高かったにもかかわらず、壁における6週間の勤務期間の最中に8人のKdA隊員が西側へ脱走している。 1980年代後半、SEDが政治的影響力を喪失する中でKdAの存在意義もまた失われていった。1989年末にライプツィヒのニコライ教会にて行われた反体制抗議活動(月曜デモ)参加者にはKdA隊員の姿も多く、一部はデモ行進にも参加した。その後、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊を受け、ドイツ民主共和国の崩壊は決定的なものとなった。1989年12月、人民議会にてKdAの解散が正式に決定し、12月中に国家人民軍と共に武装解除が行われた。1990年5月の解散時、KdAに所属する隊員は189,370人だったという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「労働者階級戦闘団」の詳細全文を読む
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