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勝惟寅 : ウィキペディア日本語版
勝小吉[かつ こきち]
勝 小吉(かつ こきち、享和2年1月15日1802年2月17日) - 嘉永3年9月4日1850年10月9日))は、江戸時代後期の旗本。左衛門太郎惟寅(これとら)と称し、幼名はもと亀松、勝家に養子に入った後は小吉。隠居後は夢酔(むすい)。酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。
旗本・男谷平蔵の三男で男谷思孝の弟、勝海舟の父。剣客・男谷信友は血縁上は従甥で兄思孝の婿養子でもあり、系図上は甥に当たる。また、島田虎之助とは、海舟が柔道の兄弟弟子(後に剣の師匠)だった縁から親交があった。著書『夢酔独言』で自分の奔放な人生を語り、現在も読まれている。いくつかの小説のモデルにもなっている。
== 生涯 ==
小吉の生涯は、その著書『夢酔独言』に詳しい。
旗本・男谷平蔵忠恕(越後国刈羽郡長島村字平沢出身の盲人・米山検校の子)の三男(庶子)として生まれる。文化5年(1808年)、旗本・勝甚三郎〔『姓氏』(丹羽基二著作/樋口清之監修)によると、勝氏西漢姓庶家と述べている。〕(41石)の養子となるが、喧嘩好きで学問を嫌い、たびたび問題を起こす。5歳の時に喧嘩をして、相手を石で殴り口を切った。その後父親に下駄で頭を殴られた。7歳の頃、2・30人を相手に1人で喧嘩したが敵わず、悔しいので切腹しようと思って脇差を抜いたが近くにいた米屋に止められた。柔道の仲間に帯で縛られて天井につるされた。悔しいので皆が物を食べようとするとき上から小便をばらまいた。
文化12年(1815年)、江戸を出奔。上方を目指す。護摩の灰(旅人を騙して金品を奪う盗賊)に路銀と服を奪われ無一文になり、乞食をしながらとりあえず伊勢参りをする。旅の途中で病気になるが、乞食仲間や賭場の親分に助けられ、江戸へ帰る。野宿をしていたときから落ちて、睾丸を片方つぶし、2年ばかり直らなかったという。ちなみに息子の海舟も子供の頃に野犬に襲われ、睾丸の片方を食いちぎられている。
文政2年(1819年)、所帯を持つ。しかし文政5年(1822年)5月、再び江戸を出奔。道中「水戸の家来だ」と身分を偽り宿屋や人足をだまして旅を続けた。遠州の知り合いの処にしばらく逗留していたが、江戸から甥が迎えに来て、懇願されて7月に江戸へ帰る。
江戸へ帰ると父親に座敷牢に入れられ、そこで21歳から24歳まで過ごしたという。その間、長男の麟太郎(後の海舟)が生まれる。「隠居して3歳になる息子に家督を譲りたい」と願うが、父に「少しは働け」と言われ、就職活動をする。しかし、日頃の行いのせいか役を得る事はできなかった。その後は喧嘩と道場破りをしながら、刀剣の売買や町の顔役のような事をして過ごす。あるとき、あまりの不行跡ゆえに長兄の男谷彦四郎に檻へ押し込められそうになった。小吉も檻に入ったら食を断って死のうと思っていたが、兄嫁や甥の男谷信友が彦四郎を説得してくれて難を逃れた。
天保9年(1838年)、37歳にして隠居。麟太郎へ家督を譲る。
天保14年(1843年)、中風発作の後遺症もあったため鶯谷に庵を結び、以前より静かな生活となる。『平子龍先生遺事』と『夢酔独言』を書く。
嘉永3年(1850年)、49歳で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Katsu Kokichi 」があります。



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