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勝田主計 : ウィキペディア日本語版
勝田主計[しょうだ かずえ]

勝田 主計(しょうだ かずえ、明治2年9月15日1869年10月19日)- 昭和23年(1948年10月10日)は日本大蔵官僚政治家。同郷の俳人正岡子規海軍軍人秋山真之の友人であった〔松山の偉人 - 政治・行政 - 松山観光ボランティアガイドの会公式サイト 内のページ〕。
== 生涯 ==
明治2年(1869年)現在の愛媛県松山市一番町に生まれた。松山藩士・勝田久廉の五男。
勝山学校伊予尋常中学一高を経て、明治28年(1895年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。大蔵次官を経て1914年大正3年)3月31日、貴族院勅選議員となり〔『官報』第501号、大正3年4月2日。〕、大正4年(1915年)に朝鮮銀行総裁に就任〔『閨閥』 347頁。〕。寺内内閣大蔵大臣を務めた〔『閨閥』 347頁、350頁。〕。
大正7年(1918年)、西原亀三と計り、興業銀行朝鮮銀行台湾銀行からそれぞれ資金を調達し、総額1億4,500万円という莫大なを提供する。この借款は主に段祺瑞政権の政治資金として使われ、成果を得るどころか、結局は回収できなかったため、帝国議会の轟々たる非難を浴びた。
その後、清浦内閣でも大蔵大臣を〔『閨閥』 350頁。〕、田中義一内閣文部大臣を務め〔、昭和14年(1939年)に内閣参議となった。なお、第2次近衛内閣でも安井英二の後任内務大臣として一旦は内定されたものの、勝田が内務省出身ではないことを憂慮した昭和天皇の意向(『木戸幸一日記』)に従って辞退している。また、鈴木貫太郎内閣でも大蔵大臣の候補となったが、高齢を理由として娘婿である元大蔵次官の広瀬豊作を推薦して自分はその後見となった。
1946年8月3日、公職追放となり貴族院議員の資格が消滅となった〔『官報』第5887号、昭和21年8月28日。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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