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法蓮寺 (塩竈市)[ほうれんじ]

法蓮寺(ほうれんじ)は陸奥国宮城郡塩竈村、現在の宮城県塩竈市にあった真言宗寺院で、戦国時代末期から江戸時代にかけて陸奥国一宮である鹽竈神社別当であった。院号を 「金光明山 法蓮華院 法蓮密寺」 と言い、山号「一森山」、別名「塩竈寺」とも呼ばれた。別当として脇院12房と社家29家からなる「一山」の中心となって社務を取り仕切り、鹽竈神社の裏参道(東参道)入り口から一森山中段(現在の東参道、塩竈市役所宮町分庁舎付近から鹽竈神社博物館付近まで)に脇院など多数の建物があったとされる。明治廃仏毀釈により廃寺となった。本尊は大日如来であったと言われる。
==歴史==

=== 成立事情 ===
室町時代の創建とされるが、正確な創建時期はわかっていない。中興第1世となった富鏡により天正頃に開山した〔天正9年(1581年)4月15日の棟札に「法印富鏡」、天正17年(1589年)3月の棟札に「権僧正富鏡」とあり、天正期に法蓮寺の方丈だったことは間違いない。〕とされるが、少なくとも永禄頃に法(宝)蓮寺が布教活動を行っていたことが資料に見られる〔東北歴史博物館 特別展 『 鹽竈・松島 - その景観と信仰 - 』図録 東北歴史博物館 2008年10月 より。〕。天文17年(1548年)以前成立の『留守分限帳』と同じ頃に書かれたとみられる『寺家しゃ家之日記』という寺社領の記録に「ほうれんし」があり、この時点で既に大きな寺領を抱えていた〔『多賀城市史』第1巻(原始・古代・中世)528-531頁。〕。
江戸時代の塩釜村の村役人の執務参考記録である『塩釜町方留書』〔『塩釜町方留書』は、明和の頃、「肝入」の留書類の中から注意すべき事項や興味がある事項を抜書きしてまとめた書物。「肝入」は百姓の中から村方役職に任命された者で、現在の行政機構で言えば村長の職務がこれに近い。塩竈市史編纂委員会編 『塩竈市史 資料編』 国書刊行会 1982年4月 に所収されている。〕によると、富鏡より前の代については方丈御記録等に見当たらないので、富鏡を第1世として以後の僧正を2世3世と数えたとしている。また『鹽社由来追考』〔享保3年(1718年)に法蓮寺の住持が書いたと思われる、鹽竈神社の由来などを記した本。志波彦神社鹽竈神社社務所編 『鹽竈神社史』 志波彦神社鹽竈神社社務所 1930年12月 に所収されている。〕によれば、法蓮寺は古記伝で院号を「金光明山法蓮華院」、別名を「塩竈寺」、山号寺号を「一森山最上護国鹽竈寺」と言ったとする。『塩釜町方留書』〔も同様で、金光明山法蓮華院京都仁和寺の末寺であったと言う。『塩釜町方留書』〔にはさらに、法蓮寺黒門の額には「法蓮密寺」と書かれていたことが記録されている。
『宮城県史 第12巻』〔宮城県史編纂委員会編 『宮城県史 第12巻 学問 宗教』 宮城県史刊行会 1987年 より。〕によれば、宮城県内の真言宗寺院は、現在は真言宗寺院でありながら慈覚大師開山や中興開山とする歴史不明の寺院が多くあり、これらは天台宗寺院が改修したものではないかと推測している。『鹽竈神社史』〔志波彦神社鹽竈神社社務所編 『鹽竈神社史』 志波彦神社鹽竈神社社務所 1930年12月 より。〕においても、天台宗だった塩竈神宮寺が法蓮寺の前身とする説を紹介しており、法蓮寺も元は天台宗寺院であった可能性がある。
中興第1世となった富鏡の経歴には諸説ある。以下にあげると。
#『鹽竈神社史』〔によれば、富鏡は留守氏の命を受け祈祷すると言い日々神殿に詣でて読経していたが、社人がこれを嫌って留守氏に訴えたところ、崇仏の心が厚かった留守氏が社人の訴えを退けたうえ、富鏡を敬って鹽竈神社の別当とし、堂塔を建てて法蓮寺としたとされる〔高橋正己 『鹽竈神社旧社家の歴史』 鹽竈神社旧社家献膳講 1981年12月 では、 と  いずれも伝説ではないかと述べている。〕。
#『一宮鹽竈社』〔奥州市立水沢図書館蔵〕によれば、宮城郡八幡村の八幡宮は往古の大社で天台宗の社僧14房を抱えていたが、そのうちの般若房が末松山般若寺〔多賀城八幡宮の別当寺。現在の宮城県多賀城市にあったが明治廃仏毀釈により廃寺となった。〕となって塩竈六共を支配し、また法蓮房が塩竈に移って法蓮寺となったとしている。同書ではさらに、富鏡は後北条氏の子息で箱根において出家した後、八幡宮法蓮花房の住持になり、法蓮寺が塩竈に移転の後は自然に鹽竈神社別当になったと記している〔。
#末松山般若寺の安永の書き出しでは、今の本山は法蓮寺であるが、往古に八幡宮が大社であった際には法蓮寺の方が末寺であったと記しており、『宮城県史 第12巻』〔では富鏡が般若寺を出て法蓮寺を隆盛させたのではないかと推測している。
しかしながら、いずれの説も立証には至らず、今後の新たな史料発見が待たれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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