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高坂甚内[こうさか じんない] 高坂 甚内(こうさか じんない、生年不詳 - 慶長18年8月12日(1613年9月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての盗賊。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。 名は、江戸初期の逸話集『慶長見聞集』によると向崎甚内(こうさき じんない)。時代が下ると苗字は向坂、勾坂、幸坂ともあるという。 == 生涯 == 『慶長見聞集』によると下総国の向崎という場所にいた盗賊の頭目であったという。 徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。 しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。なお、瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高坂甚内」の詳細全文を読む
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