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北からの元寇 : ウィキペディア日本語版
モンゴルの樺太侵攻[-からふとしんこう]
モンゴルの樺太侵攻(-からふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本九州北部に対して行われた元寇文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」〔榎森進「十三~十六世紀の東アジアとアイヌ民族―元・明朝とサハリン・アイヌの関係を中心に」『北日本中世史の研究』(羽下徳彦編、1990年吉川弘文館、ISBN 978-4642026314)。〕「もうひとつの蒙古襲来」〔遠藤巌「蝦夷安東氏小論」『歴史評論』434、1986年。遠藤「応永初期の蝦夷反乱―中世国家の蝦夷問題によせて」『北からの日本史』(三省堂1988年、ISBN 978-4385353241)。〕「北の元寇」などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。
==背景==
樺太(サハリン島)には、後のニヴフ(ギリヤーク)につながると思われるオホーツク文化(採集・漁撈を中心とする)や、アイヌが担い手だったと思われる擦文文化(雑穀農耕を含む採集生活を中心とし、土器を製作する)などの遺跡が混在しており、中世にもニヴフ・アイヌが混住していたと思われる〔中村1999、179-182頁。〕。オホーツク文化・擦文文化の終了をどの時期とするかは諸説あるが、13世紀ないし14世紀頃を画期とする説が有力であり、日本やモンゴル・ツングース(女真族)等周辺民族との交易を主体とする文化に切り替わりつつあった〔中村1997、145-147頁。〕。
黒竜江(アムール川)下流域に関しても残存史料が少なく、どのような民族が支配していたか不明瞭な部分が多いが、契丹)やなどの王朝が支配を伸ばしていたと思われる。元代の地誌である『元一統志』によれば、前代の王朝によって奴児干(ヌルカン)城が築かれた址が残っていたことが記されている〔中村2001、177頁。〕。『高麗史』には忠烈王13年(1287年)9月に「東真の骨嵬」に駐在していたモンゴルの将軍がいたことが記されている。東真は東夏または大真国とも書かれる金朝の派生国家であり、わずか18年しか存続しなかったが、骨嵬が金の構成民族である女真(ツングース系)の影響下にあったことが伺える〔中村2008、68-69頁。〕。
その後、モンゴル帝国もこの地域に勢力を広げ、1260年に大カアンとして即位したクビライ(世祖)の時代に入ると、アムール川下流域へのモンゴル勢力の伸張が行われ、黒竜江(アムール川)下流域に勢力を伸ばし、河口部附近に「東征元帥府」を設置した〔中村2001、176頁。〕。東征元帥府の機能は、先住民(ニヴフ)の支配、流刑囚の管理、屯田の経営などと考えられる〔中村2008、69頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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