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北の湖部屋(きたのうみべや)は、かつて日本相撲協会に所属していた出羽海一門の相撲部屋。現在の山響部屋の前身にあたる。 == 歴史 == 1985年(昭和60年)1月場所限りで現役引退した三保ヶ関部屋所属の横綱・北の湖は、一代年寄・北の湖を襲名し、同年12月1日に三保ヶ関部屋から分家独立して北の湖部屋を創設した。 初関取は1991年(平成3年)11月場所における太晨で、以降14人の関取を輩出した。長らく三役力士が誕生しなかったものの、2012年3月場所において臥牙丸(木瀬部屋から移籍)が小結に昇進し、部屋創設から27年にして初の三役力士となった。 2006年6月24日には北の湖親方の弟弟子であった13代二十山(元大関・北天佑)の死去による二十山部屋の閉鎖に伴い、二十山部屋の所属力士11人と呼出1人を引き取った。 2008年に発覚した大相撲力士大麻問題では、十両・白露山の大麻取締法違反の容疑で、同年9月2日深夜から3日未明にかけて北の湖部屋は警視庁の家宅捜索を受け、同年9月8日には白露山が日本相撲協会からの解雇処分を受けた。 2010年5月29日には三保ヶ関部屋の弟弟子にあたる11代木村瀬平(元幕内・肥後ノ海)の不祥事により木瀬部屋が閉鎖処分となったことに伴い、同年5月31日に11代木瀬および木瀬部屋の所属力士27人を引き取った。これにより北の湖部屋は所属力士47人(番付外1人含む)となり、この時点で全相撲部屋中最多の力士が所属する部屋となった。2012年4月1日には木瀬部屋の再興が認められ、北の湖部屋の部屋付き親方となっていた11代木瀬と力士26人が再び木瀬部屋へと移籍した。この時、木瀬部屋の閉鎖期間中に北の湖部屋へ入門した常幸龍らも木瀬部屋へ移籍した。 2013年1月には、北の湖部屋の部屋付き親方である26代小野川(元幕内・北桜)が9代式守秀五郎を襲名して式秀部屋を継承した。 2015年11月場所13日目の同年11月20日に師匠である北の湖親方が急逝したため、日本相撲協会は本場所実施中の緊急措置として、同年11月場所千秋楽までは北の湖部屋の部屋付き親方である20代山響(元幕内・巌雄)を師匠代行とし、所属力士たちが北の湖部屋の力士として出場することを認めた後〔毎日新聞 2015年11月22日 ">北の湖部屋:緊急措置終了後に消滅へ 当面、山響親方代行 毎日新聞 2015年11月22日 〕、同年11月30日に日本相撲協会は理事会において20代山響が部屋の師匠に就任することを承認した。これに伴い、同日に〔書類上における部屋名の改称日は、2015年11月場所千秋楽の翌日である同年11月23日付とされた。〕部屋の名称が北の湖部屋から山響部屋へと変更され〔北の湖部屋 部屋付きの山響親方が継承 日刊スポーツ 2015年11月30日〕、幕内・北太樹など所属力士16人・行司2人・呼出3人・床山1人はそのまま山響部屋の所属となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北の湖部屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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