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北元[ほくげん]
北元(ほくげん、拼音:Bĕiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の元(モンゴル帝国)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。
==定義== 元は、1368年に大都を放棄し、モンゴル高原を中心に中国の漢民族地域より北方の一帯を支配する政権となった。この政権をそれまでの中国を支配した元と区別して北元とする。ただし、北元の当事者たちは、自分らの政権は依然として元(自称は大元)であると自覚しており、民族の自称はモンゴルであった。 北元では、1388年にトゴン・テムルの子トグス・テムル・ハーンがアリクブケ裔のイェスデルによって殺害されて大ハーン位を簒奪され、元の事実上の始祖であるクビライ裔の皇統が一時的に断絶した。事実としては1388年以降もモンゴルには元の皇帝の後継者を名乗る大ハーンが立ち続けていたが、中国の漢民族地域を支配した明は、モンゴル人による中国王朝である元は1368年のモンゴル高原への北走によって正統中国王朝の地位を喪失し、1388年の皇統断絶により完全に滅亡したとの立場を取り、モンゴル自身はモンゴルを自称とし続けたにもかかわらず、これ以降のモンゴルのことを「韃靼」(だったん:本来はモンゴル高原の一遊牧部族タタル部のこと)と呼んだ。明の歴史を記した『明史』でも、この時代のモンゴルの歴史は「韃靼伝」に記されている。明の滅亡後、韃靼の呼称は用いられなくなり、清ではモンゴルの音訳である蒙古の呼称を復活させている。 日本でも明史の用例に倣い、一般的には、1388年をもって北元は滅亡したと見なし、以降のモンゴルを韃靼あるいはタタールと呼んできたが、中国でモンゴルを韃靼あるいはタタールと呼び変えたことは、あくまで元の連続性を否定する必要があった明代特有の事情によるものに過ぎない。 大ハーンの称号を帯びるチンギス・ハーンの男系子孫がモンゴル諸部族全体の最高君主として君臨する時代は1634年まで続くが、モンゴル史研究者の間では、この時期のモンゴルの大ハーン政権まで含めて北元と呼ぶことが多い。本記事では、この意味での北元について詳述する。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北元」の詳細全文を読む
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