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北勝海信芳 : ウィキペディア日本語版
北勝海信芳[ほくとうみ のぶよし]

北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし、本名:保志 信芳(ほし のぶよし)、1963年6月22日 - )は、大相撲力士で、第61代横綱北海道広尾郡広尾町生まれ。現役時代の体格は身長181cm、体重150kg。得意技は押し、左四つ、寄り。愛称は本名に由来する「ポチ」、海外公演で付けられた「ブルドッグ」。「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一人。血液型はA型。
現在は、年寄八角 信芳(はっかく のぶよし)として八角部屋高砂一門)の師匠。第13代日本相撲協会理事長〔日本相撲協会新理事長に八角親方 任期は来年3月まで 朝日新聞 2015年12月18日閲覧〕。
== 現役時代 ==

=== 大相撲入門〜大関時代 ===
小学生時代には既に1度北の富士から九重部屋への勧誘を受けていた。1977年におじの勤務先の社長が元横綱北の富士(当時は年寄・井筒)と知り合いだったことが縁で勧誘されるが、井筒は以前勧誘したことがあるのを覚えていなかった。ちょうど保志は柔道で名を上げて他の相撲部屋にも勧誘されていたが母が電話で井筒に「最初に来てくれたあの部屋に行きたい」という保志の意向を伝え〔北海道新聞夕刊 「私の中の歴史-力のサムライ伝」 2005/07/28〕、翌年1978年九重(井筒から名跡変更)から勧誘され東京に転校、この頃から九重の指導で稽古をしていたという。
中学卒業の1979年(昭和54年)3月場所に初土俵。後に北勝海と同じ「花のサンパチ組」が次々幕内上位で活躍する事となる。尚同期生には横綱・双羽黒がいる他、のちにプロレスラーとなった安田忠夫(孝乃富士)も同部屋で同期であった。さらに昭和の大横綱と言われる九重部屋の兄弟子・千代の富士との激しい稽古を重ねて強くなり、順調に出世していった。
1983年(昭和58年)3月場所、19歳で新十両。同じ十勝地方出身であり、中学時代には地方に名の知れた柔道選手であった一つ年上の大乃国がこの場所新入幕で、同郷のライバルといわれはじめる。同年9月場所に20歳で新入幕。いずれも同期生のなかでは一番早かった。1985年(昭和60年)から三役での好成績が目立ち始め大関候補と呼ばれる。既に大関は5人もいることで状況は厳しかったが、1986年(昭和61年)3月場所に13勝2敗で幕内初優勝を果たした。その後も5月場所は11勝4敗、7月場所は12勝3敗の好成績を挙げる。7月場所は北尾(双羽黒)の横綱昇進も懸かっており、北尾が横綱昇進を決めて大関が1人減ることもあって、7月場所後に大関昇進となった。ちなみに、この年の部屋の新年会では「関脇維持では格好悪い」ということで言い出して大関を目標としていたが、それが達成された形となった。
初土俵から本名の「保志」で相撲をとり続けていたため〔1980年3月場所時に「富士若」の四股名に改名したこともあったが、負け越したため1場所で本名に戻している。〕、大関昇進が決まると、師匠は四股名を考えたが、出身地の「十勝(とかち)地方」にちなんで、「北十海」「十勝海」「十勝富士」などが候補だった。しかし十勝の「十」の字は、『勝ち星が10勝止まりになりそうで止めた方が良い』と九重が発言、「十勝」から読みは十(と)ではあるが字は「勝」として、「北勝海」と決めた。当時『「勝」の字を「と」と読ませるのは無理がある』という声も聞かれたが、その後の本人の横綱昇進や、八角部屋創設後、所属力士の四股名に多用されたこともあり、現在では違和感なく受け入れられている。〔人名漢字では「勝」を『とう』、「海」を『み』と読むことは可能であり、これを適用すると、「北・勝・海」の正確な読みは「ほく・とう・み」である。弟子の北勝力にも「北勝」は『ほくとう』と説明したことがあるという。〕
大関昇進後、大関4場所目の1987年(昭和62年)3月場所には、上位陣総崩れの中12勝3敗の成績ながらも6場所ぶり2回目の幕内優勝となる。自身初の綱獲りだった翌5月場所は、12日目迄大関(当時)大乃国と共に12戦全勝だったが、13日目初対戦の平幕両国に苦杯を喫し1敗に後退。千秋楽で14戦全勝の大乃国と対戦するも、結局寄り倒されて13勝2敗と優勝次点の成績に終わる。15戦全勝優勝の大乃国とは2勝の差があり、千秋楽の後に日本相撲協会から横綱審議委員会へ諮問するとの公表も「横綱昇進は微妙」と報道された。しかし、それまでの北勝海の稽古熱心な所と品格の良さが横審委員会から高評価を得たことなどにより、満場一致で同場所後に大関5場所目での横綱昇進が決定した(同時に関脇小錦も大関に昇進となる)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北勝海信芳」の詳細全文を読む



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