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北勢48家 : ウィキペディア日本語版
北勢四十八家[ほくせいしじゅうはちけ]
北勢四十八家(ほくせいしじゅうはちけ)とは、伊勢国北部の北伊勢地域(特に三重県四日市市の周辺の北勢地域)に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体の呼称である。全部で53の家系があり、48家より5家多い。途中で戦国時代の乱世による城主の興亡での城主の入替や、同名の家柄の別家系があり、正確な北勢四十八家は不明である。北伊勢の室町時代から戦国時代の歴史研究で必ず語られるのが「北勢四十八家」の伝承である。「四十八家」の表現は「勢州軍記」で記述されて、以後の軍記物・地誌・市町村史に引き継がれた。四十八家は実数でなくて、相撲の技を指す「四十八手」と同様の用法で、北伊勢の国人地侍を意味するものだった〔四日市市史第16巻 通史編古代中世451頁1行目~4行目〕。
中世戦国時代安土桃山時代における伊勢国では北畠氏中勢地方を支配)・神戸氏鈴鹿郡が勢力圏)が戦国大名であった。北勢地域(伊勢国北部)では以下の北勢四十八家と呼ばれた豪族が統治していた〔三重県史〕。


==歴史==

*織田信長の北伊勢侵攻が1568年(永禄11年)にあった。織田信長は四万人の大軍で岐阜城から進撃し、先陣の滝川一益の戦略と尽力により朝明郡の中野城(赤堀氏)、西村城、羽津城(田原氏)、茂福城南部氏)、大矢知城大矢知氏)、伊坂城(春日部氏)、市場城、疋田城、広永城、小向城(朝日町)、下野山城や、北勢四十八家の棟梁の千草城(菰野町)を攻略した。

*三重郡の後藤采女正の居城、采女城(四日市市)を落城させた。有力な武将、赤堀近宗や楠城も織田氏の軍門に下った。千草氏、宇野部氏、赤堀氏、稲生氏に従う国侍が織田氏に服属して北勢48家は滅んだ。『勢州軍記』には「勢州分領の事について。伊勢国は諸家が4分割して守護する。伊勢国の南部の5郡は北畠氏の領地なり。伊勢国の北部の8郡は工藤氏の一家、関氏の一党やその他北方諸侍の領地なり」と記述がある〔四日市市史第16巻 通史編古代中世596頁〕。
*南伊勢の北畠氏、安濃郡の長野氏、鈴鹿の関氏、北伊勢の北勢地域の諸侍の4勢力の分立であった〔桑名市史本編133頁〕。
*戦国時代の群雄割拠で伊勢国の諸家は4つの勢力に分かれた。
 *1.南勢の五郡は国司である北畠具教が統治していた。
 *2.長野氏・植藤氏を中心とする安濃郡地域は長野一族と安濃郡雲林院に住む工藤一族が統治していた。
 *3.鈴鹿郡亀山市付近、河由郡の神戸地域などの地域を統治していた豪族は関一族であった。
 *4.北勢の諸侍の一派、三重郡千種城主の千種家の当主になる千種忠房が属する北勢四十八家であった。その他の領主は、宇野部氏、後藤氏、赤堀氏、楠氏、稲生氏、南部氏、萱生氏(春日部氏)、持福氏(朝倉氏)。俣木氏、富田氏(南部氏)、浜田氏(田原氏・赤堀氏)、阿下喜氏、白瀬氏、高松氏が有数な諸家である〔桑名市史本編133頁3行目~6行目〕。
*国司豪族が戦い、工藤氏と関氏が戦い、関氏と北勢の諸侍と対抗して、近江国佐々木氏六角氏尾張国美濃国の織田信長が北勢地域に進出した〔桑名市史本編133頁7行目~8行目〕。
*長島一向一揆願証寺を中心に一大動乱が発生する機運を作った。近江国の六角義賢1541年天文9年)に北勢攻略の軍を進めて、織田信長は1567年(永禄10年)に北勢諸城を攻略した。織田家家臣の滝川一益は尾張国の蟹江城から桑名市付近に出兵して下深谷城主の近藤家教を1566年(永禄9年)に滅ぼす〔桑名市史本編133頁11行目~134頁1行目〕。
*伊勢侵入軍の先鋒として美濃国と伊勢国の国境の桑名市多度付近から員弁郡桑名郡朝明郡を攻略しようとした。織田氏の明智光秀と親しい僧勝恵の説得で員弁郡の上木九郎左衛門、朝明郡の木俣隠岐守及び茂福左衛門尉に降伏を勧告して応諾して、員弁郡の白瀬氏・三重郡の浜田氏・朝明郡の高松氏など織田家の軍門に下った。岐阜から濃尾(尾張国と美濃国)の兵数万人を率いて、桑名など所々に放火して敵を威嚇する戦術を織田軍がとった。猛威を恐れて降伏した木俣氏・茂福氏(茂福城主)・上木氏・白瀬氏・浜田氏(浜田城主)・高松氏(高松領主)など全員織田軍に参加して木俣隠岐守などが案内役になり諸塞の攻撃を助けた。員弁郡の梅戸氏、朝明郡の萱生氏(春日部氏)、南部氏など富田六郷付近の諸氏、三重郡の宇野部氏も望んで織田家の軍門に下った。織田信長は降伏した北勢四十八家の兵を前列に立てて三重郡楠城主の楠貞高を攻めて滅ぼした〔桑名市史本編134頁8行目~12行目〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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