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北原 亞以子(きたはら あいこ・本名:高野美枝、1938年1月20日 - 2013年3月12日)は、日本の小説家。 == 経歴 == 東京・新橋の家具職人の家に生まれる。千葉県立千葉第二高等学校卒業。高校のころから小説家を希望し、石油会社OLをしながら書き続ける〔『房総を描いた作家たち(3)』「北原亞以子」中谷順子 著 2007年8月 暁印書館〕。 28歳の時に同人誌「文藝首都」〔「文学地帯」32号 1968年9月関荘一郎「編集後記」〕の同人への推薦人のつてが無く購読と批評提出のできる会員〔会員は投稿でき2名の読み手編集委員の推挙があれば「文藝首都」誌上に掲載される 『小説家』勝目梓 2006年10月 講談社〕となり、処女作を提出するが酷評されショックを受けて会員をやめる〔雑誌「婦人公論」2002年4月22日号「「今」こそ飛躍の時 五十歳からでも人生は変えられる」〕。1968年、同人誌「文学地帯」〔「文学地帯」 1953年大阪府堺市の関荘一郎が創刊主宰の同人誌、死去により2010年1月終刊。〕の同人となる〔。翌1969年、同誌に発表した『ママは知らなかったのよ』で第1回新潮新人賞を受賞〔新潮社著者一覧 北原亞以子 (2013年03月25日閲覧)〕〔国会図書館レファレンス共同データーベース 〕。同年、『粉雪舞う』が司馬遼太郎に賞され、第12回小説現代新人賞佳作を受賞。 以後は、勤務先を変えつつ、年1、2回「小説現代」や「小説新潮」に短篇を発表するが〔『お茶をのみながら』2005年11月 講談社〕、書いても書いても多くはボツになり、まったく評価されないどん底を味わう〔。 しかし、写真スタジオに事務員として勤務していた40才のとき誘われ、もう一つの憧れだったコピーライターとして広告制作会社に入社して、生活が安定してから〔、時代小説に本格的に分野を移し、作家として再デビューして、1988年単行本『小説春日局』、『歳三からの伝言』を初めて出版する。この時は、新人賞から、ほぼ20年たっていた〔池内紀(ドイツ文学者)」毎日新聞夕刊 2013年03月25日 寄稿文 ">「汗臭い世に吹く涼風 北原亞以子を悼む 池内紀(ドイツ文学者)」毎日新聞夕刊 2013年03月25日 寄稿文 2013年03月25日閲覧〕。その後すぐ『歳三からの伝言』出版記念パーティで機会を得て「小説新潮」で断続的に連作掲載されていた『深川澪通り木戸番小屋』が1989年講談社より刊行され、注目を集め出世作となる〔『父の戦地』2008年7月 新潮社〕。それから5年後1993年に『恋忘れ草』で直木賞を受賞する。1997年から始まった『慶次郎縁側日記』は人気シリーズとなり、NHKで高橋英樹主演で断続的にドラマ化された。 2011年心臓病の悪化で入院、手術後の復帰インタビューで余命が少ないことを述べていた〔「オール讀物」2011年9月号(文藝春秋)北原亞以子〈復帰インタビュー〉「入院中も江戸の街を歩いていた」〕。 2013年3月12日、東京都内の病院で心筋梗塞のため死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北原亞以子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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