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北原 昇(きたはら のぼる、1917年〔〕 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手〔〕。 == 来歴・人物 == 松本商業(現・松商学園高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(春1回〔1933年〕、夏1回〔1935年〕)。1933年春の大会では、遊撃手として出場し、優秀選手賞を獲得〔。立教大学進学後も強打者として鳴らし、山本一人(後に南海でチームメイトになる)のライバルとして有名だった。立大卒業後は、ノンプロの台湾実業団を経て、1941年に南海軍に入団。 南海入団後も打棒は衰えず、長打力のある打者として活躍。入団年の1941年こそ国久松一や猪子利男の控えに甘んじたが、シーズン終盤の10月から14試合に出場し、打率.333をマーク。戦争による用具の悪化により、この年のリーグ全体の打率が.201、特に南海は貧打線として知られ チーム打率が.195しかなかったことを考えると驚異的な成績だった事が分かる。翌1942年に国久が左翼手、猪子が遊撃手に回った事により、二塁手のレギュラーを獲得。4番を打っていた岩本義行の前を打つ3番打者として、勝負強い打撃でチームに貢献した。特に選球眼に優れており、四球が三振より圧倒的に多かった。 しかし、実は南海入団前に結核を患っていた。その為、マスクを付けて球場入りする事もあったという(ちなみに、チームメイトのエース・神田武夫にも同様のエピソードがある)。1942年8月5日の朝日戦を最後にプロ野球出場は途絶え、その後応召。戦地で持病の結核を悪化させ、戦病死した(正確な没年月日、死没場所は不明)。20代中盤の短い生涯だった。 東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北原昇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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