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北岡よし江[きたおか よしえ]
北岡 よし江(きたおか よしえ、1913年3月25日 - 没年不詳)は、日本の女優である〔管家紅葉氏談話 、立命館大学、2013年5月10日閲覧。〕〔映画世界社, p.105.〕〔映画世界社, p.140.〕〔''北岡よし江''、日本映画データベース、2013年5月10日閲覧。〕〔''北岡よし江''、''北岡芳江''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月10日閲覧。〕〔''北岡よし江''、allcinema, 2013年5月10日閲覧。〕〔''北岡よし江''、''北岡芳江''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月10日閲覧。〕。本名同じ、別名北岡 芳江〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1913年(大正2年)3月25日、京都府京都市上京区仁和寺街道六軒町西入に生まれる〔。父は俳優の嵐冠三郎である〔〔〔。 1925年(大正14年)3月に旧制小学校を卒業、同年6月に牧野省三が設立し、父が俳優部幹部を務めるマキノ・プロダクションに入社する〔〔。同年9月11日に公開された『討幕の叫び』(沼田紅緑)に出演、満12歳で映画界にデビューした〔。1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、北岡は、マキノ智子、松浦築枝、岡島艶子、大林梅子、桜木梅子、生野初子、河上君栄、三保松子、泉清子、都賀静子、住乃江田鶴子、別所ます江らとともに「俳優部女優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月10日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生してストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月、製作が再開されたが〔御室撮影所 、立命館大学、2013年5月10日閲覧。〕、北岡は、同社の解散時まで所属し、同年4月3日に公開された『親爺天国』(監督三上良二)が同社での最後の作品となった〔〔〔〔。解散後は、嵐寛寿郎プロダクションに移籍、2本に出演した記録が残っている〔〔。 1932年(昭和7年)2月に高村正次と立花良介が、御室撮影所内に正映マキノキネマという短命に終わる会社を設立したが〔、これに北岡は在籍したという〔。同社は同年4月には解散しており、同社での北岡の出演記録は見当たらない〔〔〔〔。このとき北岡は満19歳であるが、以降の消息は不明である。没年不詳。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北岡よし江」の詳細全文を読む
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