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北島 驥子雄(きたじま きねお、1888年7月31日 - 1975年2月22日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。重砲兵の第一人者。 == 経歴 == 栃木県出身。早尾海雄の五男として生れ、北島庚吉の養子となる。陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1908年5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第2連隊付となった。1914年8月、攻城砲兵司令部副官として青島の戦いに従軍した。 1915年8月、陸軍重砲兵射撃学校(のち陸軍重砲兵学校と改称)教官となり、重砲兵第2連隊中隊長、陸軍省軍務局課員(砲兵課)、欧米出張、野戦重砲兵第7連隊付などを経て、1925年5月、二度目の重砲兵学校教官となった。 1928年8月、陸軍技術本部付となり、砲兵監部員、三度目の重砲兵学校教官、旅順重砲兵大隊長、野戦重砲兵第7連隊長などを経て、1937年12月、第1砲兵司令官となった。1938年2月、陸軍野戦砲兵学校幹事となり、同年7月、陸軍少将に進級した。 1938年12月、野戦重砲兵第5旅団長となり日中戦争に従軍。1939年8月、舞鶴要塞司令官、1940年7月、第1砲兵司令官となり、翌年3月、陸軍中将に昇進した。太平洋戦争では、その専門性を買われ、重砲兵第1連隊を基幹とする第1砲兵隊司令官として香港、フィリピンを転戦してその攻略に貢献し、その後満州に移動した。 1944年3月、予備役に編入されたが、翌月に召集され高雄要塞司令官を務めた後、1945年3月、最後の重砲兵学校長となり同校で四度目の務めを果たした。同年9月に召集解除となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北島驥子雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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