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北村 久寿雄(きたむら くすお、1917年10月9日 - 1996年6月6日)は、日本の水泳選手。 == 人物 == 出身地は高知市菜園場町(はりまや橋の東)。指導にあたったのは溝渕治助。練習には坂本龍馬も泳いだという鏡川を流れに逆らって泳ぐ方法を採用した。 1932年(昭和7年)に開催された第10回のロサンゼルスオリンピックの水泳1500m自由形でそれまでのオリンピック記録を40秒近く縮める19分12秒4のタイムでわずか14歳と10ヶ月で金メダルを獲得、1988年のソウルオリンピックでハンガリーのクリスティーナ・エゲルセギ(当時14歳1か月9日)に破られるまで競泳世界最年少金メダリストであった〔歴代日本選手団としては1992年のバルセロナオリンピックで岩崎恭子(当時14歳6日)に破られるまでは最年少金メダル獲得記録であった。尚、2012年現在でも日本男子選手としては最年少金メダル獲得記録を保持している。〕。 オリンピック後、一年浪人して第三高等学校に進学。ここで競泳からは退いた〔『Sports Graphic Number』No.103(1984年7月20日号)、文藝春秋、p32。北村によると競泳をやめたのは「学生生活の方が面白くってね」とのこと。〕。 その後東京帝国大学を卒業して労働省に入省。太平洋戦争では陸軍中尉としてビルマ戦線に従軍し、シッタン川渡河作戦における河川の地形偵察や将兵に対する水泳指導に活躍した〔ルイ・アレン 『ビルマ遠い戦場(下)』 原書房、1995年、95頁。〕。軍隊から復員した後は公労委事務局長、国際労働機関(ILO)日本政府代表部一等書記官〔鏡川潮江橋、北村久寿雄さんの金メダル ひまわり乳業今日のにっこりひまわり 2005年7月11日〕などを務めた。また第3回アジア競技大会競泳日本代表監督〔 『水泳』日本水泳連盟 第120号 1958年12月〕や日本水泳連盟常務理事も歴任している。 1984年当時は住友セメント顧問を務め、同年に発足したマスターズ水泳協会の初代会長にも就任した〔。 また1936年には、優勝を記念して高知県初の50mとなる高知市営プールが建設された。プールそのものは高知市総合体育館への建て替えにより現存しないが、総合体育館建設以前に存在していた高知市営体育館には北村久寿雄の足跡(資料)が展示されていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北村久寿雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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