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北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)〔『人事興信録』初版、187頁。〕 - 1905年(明治38年)7月26日〔『北条元利の生涯』818頁。死亡届は「7月27日」。〕)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。旧名・河村徳次〔『北条元利の生涯』794頁。〕。 ==経歴== 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条家の養子となる〔。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した〔『北条元利の生涯』796頁。〕。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた〔『北条元利の生涯』798-799頁。〕。 1875年6月、司法省に転じ、長崎上等裁判所在勤となり、同年12月13日、四級判事補に任官。その後、京都裁判所在勤、梅津区裁判所長、小浜区裁判所長、大阪上等裁判所在勤などを歴任し、1881年3月8日、判事任官〔『北条元利の生涯』800-803頁。〕。 以後、金沢始審裁判所詰、新潟始審裁判所詰、根室始審裁判所長、根室重罪裁判所長、東京控訴院判事、水戸地方裁判所長などを歴任。1894年1月11日、検事に転じ、新潟地方裁判所検事正に就任した〔『北条元利の生涯』804-810頁。〕。 1900年4月27日、岩手県知事に就任。規則の整備、教育施設の整備、岩手県庁舎新築などに尽力〔『新編日本の歴代知事』122頁。〕。1904年11月17日、知事を休職となる〔『官報』第6417号、明治37年11月18日。〕。1905年7月、病のため死去した〔『北条元利の生涯』819頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条元利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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