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北条 実時(ほうじょう さねとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏一門。金沢流北条氏の実質初代で、金沢 実時(かねさわ さねとき)とも。父は北条実泰。母は天野政景の娘。 == 略歴 == 天福元年(1233年)、10歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において元服〔『吾妻鏡』天福元年十二月二十九日条。 天福元年十二月小廿九日己亥。陸奥五郎子息小童歳十。於武州御亭元服。号太郎實時。如駿河前司在座。一事以上。亭主御經營也。即又爲加冠。是非兼日之搆。有所存俄及此儀之由。被仰云々。〕、烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)〔角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.19)、山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))。〕。翌文暦元年(1234年)に出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた(『吾妻鏡』)。以後3度にわたって同職を務める。 4代執権北条経時、5代北条時頼政権における側近として引付衆を務め、建長5年(1253年)には評定衆を務める。文永元年(1264年)には得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。 文永の役の翌建治元年(1275年)には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住。蔵書を集めて金沢文庫を創設する〔神奈川県立金沢文庫 文庫概要 〕。翌建治2年(1276年)に死去、享年53。 文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学ぶ。源光行・親行父子が校訂した河内本『源氏物語』の注釈書を編纂する。また、実子実政にあてた訓戒状も知られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条実時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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