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北条師時[ほうじょう もろとき]
北条 師時(ほうじょう もろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権(在職:正安3年8月22日(1301年9月24日) - 応長元年9月22日(1311年11月3日))〔。 == 生涯 == 父は第8代執権・北条時宗の同母弟である北条宗政。母は第7代執権・北条政村の娘。父の死後に伯父・時宗の猶子となる。 永仁元年(1293年)、19歳で5月30日に評定衆、6月5日に三番引付頭人、10月20日に執奏、12月20日に従五位上と、鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている。 正安3年(1301年)8月、貞時の出家に伴い執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の14代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、幕政の実権は貞時に握られていた〔。尚、補佐役の連署には母方の伯父である北条時村が任じられている〔尚、師時は時村を烏帽子親として元服したとされている(鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.279)。元服の傾向に従えば「時」の字も時村から一字拝領した可能性がある。〕。 貞時の死の1ヶ月前である応長元年(1311年)9月22日に出家し、同日に死去した〔〔 永井晋 著『人物叢書‐金沢貞顕』吉川弘文館、2003年、p.73〕。享年37〔。評定中にその座でそのまま死去したと伝わる〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条師時」の詳細全文を読む
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