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北条政顕[ほうじょう まさあき]
北条 政顕(ほうじょう まさあき)は、鎌倉時代後・末期の武将・鎮西探題。北条氏の一門。父は金沢流北条実政で、金沢政顕とも称される。北条貞顕の従兄にあたる。 == 生涯 == 文永6年(1269年)〔〔、北条(金沢)実政の子として生まれる。正応5年(1292年)ごろ、肥後守護となったという〔世界帝王事典 北条氏(金沢流) 〕〔西ヶ谷、1998年、p.266によれば、永仁年間(1293年-1298年)以降、政顕・(規矩)高政の父子に亘って務めたとあり、ほぼ一致する。〕。 正安3年(1301年)9月、父・実政の出家に伴い、家督と探題職・守護職を譲られる〔 安田、1990年、p.540 「北条実政」の項 より。〕。その後、15年ほどに亘って在任し、相論に対するものをはじめとした85通の裁許状や鎮西下知状〔鎌倉時代の鎮西探題が発給した下知状(『歴史民俗用語辞典』より)。〕を発給している〔。 その間、嘉元2年(1304年)ごろには上総介となっている〔ようだが、翌嘉元3年(1305年)から延慶2年(1309年)までの間は北条宗方の陰謀事件(嘉元の乱)との関連により裁許状を発給していない〔。 正和5年(1316年)には鎮西探題を辞任。その後、次の阿蘇随時が探題に就任するまで約1年間、嫡子の種時(たねとき)が代理で探題職を務めている〔或いは、随時の次の赤橋英時(最後の鎮西探題)が自害するまで代行していたともいう(世界帝王事典 北条氏(金沢流)より)。〕ことから、同年に没したとも考えられる。
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