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北条 時国(ほうじょう ときくに) *名越流北条氏の一族、北条時長の子〔「入来院家所蔵平氏系図」の名越流北条氏系図(山口、2002年、P.4)の時cによる。〕。通称は備前四郎〔。金沢流北条実時の養子となって所領を譲られた〔「入来院家所蔵平氏系図」の名越流北条氏系図(山口、2002年、P.4)の時國の項に「平実時為子譲所領、」(平実時子と為し所領を譲る)と注記されている。〕。 *佐介流北条氏の一族。北条時房の次男・時村の玄孫(系譜は時村―時隆―時員―時元―時国)。北条房実と北条時光の弟にあたる。 *佐介流北条氏の一族。北条時房の長男・時盛の孫。以下、本項にて詳述する。 ---- 北条 時国(ほうじょう ときくに)は、鎌倉時代中期の北条氏一門の武将。北条氏佐介流の一族であり、佐介時国とも呼ばれる。 父は佐介流時盛系の北条時員(時俊とも)。のち祖父北条時盛の猶子となる〔。 == 人物 == === 生涯 === 文永9年(1272年)の二月騒動で北条時輔が誅殺された後、空職であった六波羅探題南方に就任するため、建治元年(1275年)12月、13歳で79歳の祖父時盛と共に上洛し、北条時村と共に洛中の警護を命じられる。弘安7年(1284年)4月に執権・北条時宗が没して間もない6月、悪行を理由に六波羅探題を罷免されて関東へ召し下され〔細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.65「佐介時国」の項。『尊卑分脈』の時國の項に「弘安七六廿被召下依惡行也」とあるほか、『武家年代記』建治3年条・弘安7年条、「六波羅守護次第」、『佐野本北条系図』、『続群書類従』所収「北条系図」、『浅羽本北条系図』にも同様の記載が見られる。これらは時期を6月20日とするが、『鎌倉年代記』建治元年条および『帝王編年記』(国史大系本)巻26では22日、『関東開闢皇代並年代記事』では23日とする。〕、常陸国へ配流となったのちに誅殺された。 この時国の死について、『鎌倉年代記』建治元年条では「常陸国伊佐郡下向、10月3日卒」とし〔細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.65「佐介時国」の項による。〕、『武家年代記』建治3年条では10月3日に「於常州被誅了」とする〔。「六波羅守護次第」(東京大学史料編纂所謄写本)では10月4日に自害とするが、異説として9月常陸にて逝去とも伝える〔。『関東開闢皇代並年代記事』(東京大学史料編纂所写真帳)の「北条系図」でも死因を自害とするが、その時期を8月としている〔。『尊卑分脈』や『続群書類従』所収の「北条系図」、『浅羽本北条系図』では8月13日に「被誅」(誅された)とする〔。 このように、命日については様々に伝わっているが、「悪行」を起こしたことと、弘安7年に死去したという点では概ねいずれも共通しており、唯一「六波羅守護次第」が載せる没年齢(享年22)によって、時国の生誕年が弘長3年(1263年)と判明する〔。尚、『武家年代記』建治3年条と『関東開闢皇代並年代記事』の伝えるところによれば、粛清される直前の7月14日には出家して親縁(しんえん)と名乗っていたという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条時国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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