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北条時有 : ウィキペディア日本語版
北条時有[ほうじょう ときあり]
北条 時有(ほうじょう ときあり、生年不明 - 正慶2年/元弘3年(1333年5月))は、鎌倉時代末期の武士。北条氏名越流従五位下左近将監遠江越中守護名越時有とも表記される。父は北条公時の子である公貞。子に時兼。弟に有公貞昭
正応3年(1290年)、時有は越中国守護所として放生津城を築城する。正慶2年/元弘3年(1333年)、隠岐から脱出し鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽越後の反幕府勢力に擁立され北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた14代執権北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重近衛宗康日野直通らを暗殺させた。
同年、新田義貞足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公、甥の貞持と共に放生津城へ撤退するも、脱走する兵が相次ぐのを受けて、最早これまでと妻子らが舟に乗り、奈呉の浦に入水したのを見届けた後、城に火を放ち自刃した。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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