|
北条 時直(ほうじょう ときなお)は、鎌倉時代中期から末期の北条氏の一門で武将。北条実時の子。長門探題。 == 生涯 == 嘉禎3年(1237年)に式部大輔に叙任〔 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.544〕。寛元4年(1246年)から建長3年(1251年)まで遠江守となる〔。永仁3年(1295年)から文保元年(1317年)まで上野介、大隅守護を務めた〔。永仁5年(1297年)、鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐する。元亨3年(1323年)、周防・長門の守護に任命され、長門探題となる〔。 元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月11日、及び3月12日に祝安親、土居通増、得能通綱、忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ〔、長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する。 5月、厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れる〔。そして海上で六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び孤立無援となった〔。このため5月26日、朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された〔。しかし程なく没した。死因は病死であったという〔。 年齢は生年を嘉禎年間前後と考えるならば100歳前後だった事になる。 子の上野四郎は時直の死の2年後に反乱を起こすが、鎮圧されて殺された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条時直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|