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北条時房[ほうじょう ときふさ]
北条 時房(ほうじょう ときふさ)は鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。 == 生涯 == 文治5年(1189年)、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連(ときつら)と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、頼家が第二代鎌倉殿になると、蹴鞠に堪能なことから側近として随従する。頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のためのスパイの役割を果たしていたとも考えられる。建仁2年(1202年)に時房と改名。時連から時房に改名した経緯について、平知康から「時連」の「連」は銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、この知康の発言を耳にした頼家から改名を提言されたという逸話がある〔谷口榮「海を渡ってきた銅銭」(『吾妻鏡事典』東京堂出版所収)〕。建仁3年(1203年)の比企能員の変により頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず北条氏一門として次第に重きをなすようになる。 元久2年(1205年)、畠山重忠の乱では兄の義時と共に重忠討伐に反対したが、時政の命により関戸の大将軍として出陣する。牧氏事件で時政が失脚すると、8月9日の臨時除目で叙爵し、遠江守に任じられる。同年9月21日に駿河守に遷任し、承元4年(1210年)正月14日、武蔵守となる〔『吾妻鏡』は時房の武蔵守補任を承元元年(1207年)正月14日とするが(『吾妻鏡』承元元年2月20日条)、『将軍執権次第』承久3年条は承元4年(1210年)正月14日としている。この時期の将軍家政所下文を見ると、承元3年(1209年)7月28日(『鎌倉遺文』1797)、同年12月11日(『鎌倉遺文』1821)における時房の署判は「駿河守平朝臣」であり、承元4年(1210年)2月9日(『鎌倉遺文』1828)から「武蔵守平朝臣」となっているため、『吾妻鏡』の年時は誤りであることが分かる(金沢正大「武蔵守北条時房の補任年時について―『吾妻鏡』承元元年二月廿日条の検討―」『政治経済史学』102、1974年)。〕。兄の義時は相模守であり、北条氏は兄弟で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。建暦3年(1213年)、和田義盛が討伐された和田合戦にも従軍し、若宮大路で奮戦し武功を挙げ、戦後、その功績を賞され上総国飯富の荘園を拝領。建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると上洛し、朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還した。 承久3年(1221年)、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。泰時同様京に留まり、初代六波羅探題南方となる。元仁元年(1224年)に兄義時が死去すると先に鎌倉へ帰還した執権泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時を補佐するため請われて同年初代連署に就任する。延応2年(1240年)死去。享年66。時房死去後の連署は1247年に甥北条重時が就任するまで空席となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条時房」の詳細全文を読む
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