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北条 維貞(ほうじょう これさだ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門、大仏流の当主。大仏 維貞(おさらぎ -)ともいう〔〔。父は北条宗宣。六波羅探題南方・連署などを歴任した人物である。 == 生涯 == 弘安8年(1285年)〔〔、北条宗宣(後の第11代執権)の子として生まれる〔。生誕年に関しては異説もある〔〔が、元服時に得宗の北条貞時(第9代執権)より偏諱(「貞」の1字)を受けて〔山野龍太郎論文、脚注(27)(山本、2012年、p.182)より。詳細は北条氏 (大仏流)の項を参照のこと。また、もう一方の「宗」の字は、父・宗宣がその父(維貞の祖父)・宣時より「宣」の字を受け継いだのと同様に、宗宣から取ったものとみられる。〕貞宗(さだむね、初名)〔〔〔と名乗っていることから、その辺りの時期とみて間違いはないだろう。時期や理由は不明だが、のちに維貞に改名した。 嘉元2年(1304年)7月10日に引付衆に任じられる。以後は小侍奉行、評定衆、引付頭と順調に出世を重ね、正和4年(1315年)に六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した。しかし元亨4年(1324年)に探題職の辞任を命じられ、鎌倉への帰還を命じられたが、このときに後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに空白の合間をぬって後醍醐天皇一派によって9月には正中の変を引き起こされている。そして変後の10月30日には評定衆に返り咲いた。 正中3年(1326年)4月24日に連署となり、第16代執権の北条守時を補佐した。しかしこれは同年の嘉暦の騒動によるものから内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そしてほどなくして病に倒れ、出家してから嘉暦2年(1327年)9月7日に死去した〔。享年43。 家督は嫡子の高宣(たかのぶ)が継いだが翌年4月に早世し、弟の家時(いえとき)が家督を継いだ。家時・高直ら大仏一族はのちの鎌倉幕府滅亡時に自決している。 和歌の才能に優れた文化人であり、玉葉和歌集に維貞の作品11首が遺されている〔〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条維貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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