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北条 繁広(ほうじょう しげひろ、天正4年(1576年)-慶長17年6月8日(1612年7月6日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の後北条氏一族。 北条氏繁の。母は北条氏康の娘の七曲殿。 兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる。 子に北条氏長(正房)。通称・新左衛門尉。 == 生涯 == 小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で徳川家康に降伏した。家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われてその養子となり、兄の下総国岩富城に入る。 しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり、慶長16年(1611年)に氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせる。 これに激怒した繁広は江戸の将軍・徳川秀忠に訴え出るが、翌年に急死する。後に事の顛末を知った家康は繁広の4歳になる嫡男・北条氏長を召しだして別個に500俵取の旗本として遇した。 北条氏長は後に甲州流軍学の学者として有名に成り、軍学北条流兵法の始祖と成った。 菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で、大河内松平家の菩提寺でもある。 category:戦国武将 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条繁広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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