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北条貞国[ほうじょう さだくに]
北条 貞国(ほうじょう さだくに)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。桜田 貞国(さくらだ さだくに)とも呼ばれる。 == 生涯 == 弘安10年(1287年)の生まれとされる〔。これに基づけば、得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる〔生誕年から算出される元服の年はおおよそ1296年-1301年およびこの前後であり、この期間に得宗家当主であった貞時と烏帽子親子関係を結んだものとみられる(参考:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年))。この時期には「得宗(貞時)→御家人」という形で偏諱(「貞」の字)が下賜される図式が成立していたことも研究で指摘されており(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.21)、貞国もこの対象者であったと考えられる。〕。その後の貞時・高時政権期の活動は不明である。 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった〔峰岸・57頁、『太平記』巻第10 「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。」とある。〕が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れた。大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った〔峰岸・57頁〕後、同月22日に北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した(東勝寺合戦)〔。 しかし、以上の内容は『太平記』に見られるものであり、実際の史料ではそれより前の5月9日に、北条仲時らと共に自害したとされる〔。いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条貞国」の詳細全文を読む
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