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地方総監府[ちほうそうかんふ]
地方総監府(ちほうそうかんふ)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)最末期(1945年(昭和20年)6月)の日本において、本土決戦のため全国8ヵ所に置かれた、都道府県の上位に位置する内務省管轄下の地方行政機関である。敗戦後の同年11月に廃止されたため極めて短命に終わった。
== 概要 == 米・英など連合国との太平洋戦争を戦っていた日本では、1945年に入って東京などの大都市が大空襲にあい、また沖縄で地上戦(沖縄戦)が開始されるなど、遠からず連合国の本土上陸が予想される戦局となった。政府・内務省は敵軍の本土上陸作戦により国土が分断される事態に備え、全国を軍管区に対応する8区域(北海・東北・関東信越・東海北陸・近畿・中国・四国・九州)に分け、地方行政を強力に統合し連絡調整をおこなうことで各区域の自戦・自活態勢を構築するため、同年6月10日、従来の「地方行政協議会」(1943年7月に全国9区域に設置され、協議会所在地の府県知事をそれぞれの協議会会長とした)を改組し、地方総監府を設置した。 各総監府は所在地の地方官庁とは別個の行政組織とされ、またその長たる地方総監の権限は強大で、管内にある都道府県知事への指揮権(地方官庁の首長による命令・処分に対する取り消し・停止を含む)、管内における地方総監府令の公布権、非常事態に際しての当該地方の陸軍・海軍司令官に対する出兵要請権などを有していた。しかし現実には空襲の激化にともない、管内知事の会合を開くこともできず、中央と各府県を連絡する機関以上の役割を果たすことはなかった。敗戦直前の8月6日には、原爆投下により大塚惟精中国地方総監が被爆死したが、これが地方総監中唯一の戦災死者であった。 8月15日の敗戦後、9月28日の閣議により地方総監府の廃止が決定され、GHQの承認を経て11月6日勅令により廃止された。総監府に代わる地方行政の総合調整機関としては「地方行政事務局」が暫定的に設置された。 以上のように、歴史的存在としての地方総監府は存続期間が極めて短かったこともあって、地方行政組織としては十分に機能することはなかったが、近年のいわゆる道州制論議のなかで「道州制の先駆的存在」として言及されることが多くなっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「地方総監府」の詳細全文を読む
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